中学校教育と生涯教育に貢献
菅原昭平さんは、 岩谷堂農林学校の林業家第1回生として入学した。
昭和24年、岩手青年師範学校を卒業後、米里中学校を皮切りに中学校教諭として、長く県内で教鞭を執った。
昭和32年、 岩谷堂中学校に赴任。江刺第一中学校 岩谷堂校舎と呼んだ昭和40年3月までの8年間、 岩谷堂中学校に在職した。
昭和62年3月、盛岡市立河南中学校校長を最後に退職した。この間、社会教育活動の指導者、文化財調査委員としても活躍。岩手県中学校校長会会長を務めたあと、昭和62年4月から盛岡市先人記念館の初代館長を務めた。
昭和が始まった日に誕生
昭平さんは昭和元年12月25日、まさに昭和が始まった日に、江刺郡岩谷堂町字中野1番地に生まれた。「昭平」という名前は、父親が後藤新平にあやかって名付けた。
子供のころは身体が弱く学校も休みがちだった。世は軍国主義の時代。特に男子には心身の頑強さが求められた。昭平さんは劣等感を持ちながら、少年時代を過ごしたという。
国民学校2年の時、母が倒れた。寝たきりの生活となったため、昭平さんは国民学校高等科を卒業後、2年間、自宅で農業に携わった。苗代づくりや耕作など、農業に従事することで次第に身体が丈夫になり、その後、開校したばかりの岩谷堂農林学校に進んだ。
青年師範卒業後、中学校教諭に
岩谷堂農林学校を卒業後、農業経済を学びたいと考え、宇都宮高等農林学校(現宇都宮大学農学部=国立)を受験し、合格したが、家庭の事情で進学を断念した。
昭和19年、金ケ崎町六原に開校した官立岩手青年師範学校が、戦後の昭和21年、同じ金ケ崎町三ケ尻の旧陸軍兵舎に移転した。
昭平さんは移転した青年師範学校に入学。そこで生涯の師、高橋康文校長(※)と出会うとともに、学友から豊かな感化を受けた。
昭和24年から米里中学校を皮切りに、中学校教諭として長く教鞭を執った。昭和32年、岩谷堂中学校に赴任。昭和40年3月までの8年間にわたり在籍した。
昭和62年3月、盛岡市立河南中学校校長を最後に退職。この間、社会教育活動の指導者、文化財調査委員としても活躍する。
盛岡市先人記念館の初代館長に
退職後、故郷の江刺・岩谷堂で悠々自適の暮らしをしようと考えていた昭平さんに、盛岡市から、「盛岡市先人記念館(※1)の設立準備を手伝ってもらえないか」と要請が入る。昭平さんが教育行政のみならず、いかに多方面から信頼が厚かったかが分かる。
昭平さんは昭和62(1987)年4月、設立準備主幹となり、その年の10月のオープン時には、初代館長として新しい施設の企画・運営に当たった。
岩手青年師範学校の記録集を出版
昭平さんが編集に関わった著作に、平成8年発行の『師友の絆 五十年の回想』がある。450ページを超える大作である。岩手青年師範学生たちの学年誌として、昭平さんが70歳のときに編纂した。
青年師範では、「君たちは深山の大木たれ」と諭す高橋康文校長(※2)のもと、学友たちは学びを深め、研鑽を積んで県内外に羽ばたいた。
『師友の絆 五十年の回想』は、卒業生たちの学びと、学校現場での業績を多くの関連文書によって記録した岩手教育史の貴重な資料集であり、学友たち、恩師の寄稿文によって綴られた時代の証言集であった。
岩手日報連載、郷古潔の評伝を出版
平成18年、『明鏡止水の人 郷古潔』を出版した。この本の基となったのは、平成16年1月5日付を初回として、毎週日曜の岩手日報朝刊に掲載された郷古潔の評伝。
「(先人記念館の関係から)郷古家から資料をいただいている。見せてもらってもいる。まだ日の目を見ない資料が沢山ある」
当時の岩手日報常務取締役論説委員、中原祥皓さんは、昭平さんからこの話を聞き、「一度の記事掲載ではもったいない」と考えた。中原さんのすすめで、昭平さんが取材・執筆を開始。岩手日報紙上に掲載されることが決まった。連載は102回に及んだ。
郷古潔は「財界のご意見番」「三菱の大御所」と言われた水沢出身の財界人。掲載が始まると、すぐに読者から大きな反響があった。
郷古家の思い、読者からの願いを受け、新聞連載に書ききれなかったことを加え、まとめたのが、平成18年5月25日に出版された『明鏡止水の人 郷古潔』である。
三菱の大御所、郷古潔とは
郷古潔は「財界のご意見番」「三菱の大御所」と言われた水沢出身の財界人。旧制盛岡中学を卒業後、第一高等学校から東京帝国大学法科に進んだ。三菱合資会社に入社し、炭鉱部、営業部で頭角を現し、三菱造船取締役、初代三菱重工社長などを歴任した。
また、三菱に留まらず、内閣顧問など国の要職も務めた。戦後は経団連など政財界、文化団体などの団体組織に関わり、各界に広く人脈を持った。岩手学生寮建設に貢献するなど、岩手県や東北地方の発展にも寄与した。
郷古潔の生涯を著した初の出版
郷古潔の生き方、考え方には、今でも経営に関わるものに、多くの示唆を与えるヒントが多くあった。新聞掲載のタイトルとなった「明鏡止水」は、郷古潔が心に刻んでいた言葉。「邪念がなく、静かな心」という意味である。努力することの大切さ、善意と親愛、平和と福祉の追求……。郷古潔の生涯には、人が生きること、世の中はどうあるべきかという、人生と人間社会に関わる多くの教示が含まれていた。
努力博学碩学の人
昭和22年8月16日、岩谷堂農林学校同窓会が創設された。昭平さんは、この同窓会創設に尽力された。30歳の若さで第2代の同窓会長となり、以来、第6代、第7代と通算5年5カ月にわたって同窓会長を務め、同窓会の円滑な運営に貢献した。
昭平さんは、平成21年7月3日に逝去された。岩谷堂中学校時代の教え子、千葉俊一さんは、「先生は努力博学碩学の人。人徳も兼ね備えておられ、ふるさとの先人を敬い、学友との絆を大切にし、多くの教え子に慕われた83年の生涯であった」と生前の威徳を讃え、弔辞としている。
(※1)盛岡市先人記念館
盛岡の豊かな精神文化の礎を築いた先人130人を顕彰。その業績とともに、一人ひとりの人間形成の過程と人材を輩出した環境を紹介している。
(※2)高橋康文
岩手青年師範学校校長を務めた後、岩手大学図書館長、同大学芸学部長を歴任。岩手日報文化賞、盛岡市功労賞を受賞。
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