子供の頃のこと
佐島群巳さんは、江刺郡愛宕村に生まれた。農家の8人兄弟の七男。いつも兄たちの行いや、祖母の優しさに触れながら、幼少期を過ごした。幼いころの遊び場は、家族が働いている水田や畑地だった。耕したばかりのふんわりした土の上を駆けずり回るのが好きだった。小さな足跡をとがめるものはいない。
10歳から農作業と家畜の世話をする。群巳少年が行う家畜の世話とは、朝夕に餌をやることだ。田んぼの代掻きの「させどり」(指棒ともいう)をしたのも小学校4年生だ。
野良で聞いた父の言葉
野良で父から教えられたことは、土づくりのこと、種を選ぶこと、地域の人たちと仕事をすること、農作業の段取りのことなど。
休むことなく働いていた父が、仕事の合間に、「な、ともみ……」と語ってくれた言葉がある。それは「手塩にかければ、作物はよく育つよ。人様には迷惑かけるなよ。人のためになることをすること。人から言われたら素直に『はい、ありがとう』と言え」。
幼少期、学童期の原体験、ものをつくり育てる体験、父親の一言一言が、群巳さんが教師として、また、一人の人間として、生涯生きる原動力となり、原風景となった。
生命の重さと人間の尊厳
群巳さんは家族に「兄さんたちと同じように、東京の中学校に行きたい」「予科練を志願したい」と話した。だが、母は群巳さんの企てや願いをことごとく拒否した。
「おまえだけは、東京さ行ぐな。おまえだけは、戦さ行がねでけろ」
5人の兄たちは戦争に赴いていた。ある日、役場の人が一通の封筒をもって来て、中の公報を母に読んであげた。
「南海洋派遣 佐島賢治郎は ニューギニア沖で戦死せる」
母はその公報を握りしめ、無言で6畳の仏間に閉じ籠り掃除をした。群巳さんも、母の思いを察して、2時間もかけて家じゅうを掃除する。兄の死を惜しみ、悲哀にむせぶ母の姿を見て、「生命の重さ」「人間の尊厳性」を痛いほど感じた。
終戦の決定
岩谷堂農林学校1年次の8月15日。その日は学校の校庭を耕し、ジャガイモ栽培することになっていた。正午に重大ニュースがあるというので、ラジオの前に集まった。
よく聴きとれなかった。みんな青ざめた顔で、「戦争に負けた」と精気を失っていた。誰かが「日本が戦争に負けるはずがない。神風が吹くはずだ。世界最強の軍隊は一体どうなった」と言った。信じていたものが一挙に瓦解した。
このとき、16歳の群巳さんは、瞬時にこう考えた。「これからが本当のことが勉強できる。これから本物を学ぼう。一生学ぼう」。
群巳さんの青春前期は、戦争に翻弄された時代であったとともに。愛宕村が二つの災害に見舞われた時代でもあった。
アイオン台風による北上川の堤防決壊で耕地が流失し、佐島家では床上1メートルの激流が壁を貫いた。下川原集落30軒が全焼する大火にも見舞われた。
教師への道 本物を学ぶ充実感
群巳さんは、念願叶って1948(昭和23)年に上京した。小学校教師の従兄弟を見習い、師範学校に入学。翌年、新制の東京学芸大学に入り、教師養成の道を歩み始めた。
「教師になるためには、人間として自分自身を成長させる以外にない」
群巳さんは、連日、上野図書館や国会図書館(現在の赤坂離宮)通いをし、未知の世界が開かれていく。
大学卒業時には、主任教授から高校教師になることを勧められた。群巳さんは断り、自らの希望通り、公立小学校の教師となった。
教師になって3年目、東京学芸大学附属小学校に赴任した。附属小では、「授業づくりの基本と実践、授業分析」「人間関係形成の学級づくり」「授業のこと、子どもの成長、つまずき研究無くして教育的学問研究なし」と、日々先輩教師から強烈な叱咤を受けながら、子どもたちに向き合う。厳しい指導だったが、まさしく「一意専心」の「本当のこと」「本物を学ぶこと」の充実感を味わった。
環境教育と教育臨床学の研究を深める
群巳さんは学校テーマ研究のほか、お茶の水女子大学の小口忠彦教授と共に、「授業と認識・思考・発達課題」「人間関係と学習」などについて、共同研究をしている。
「私たちの研究同人の共通感覚は、フィールドで教材開発を行い、その教材の適切性、有効性を授業で実証すること。一つのテーマは、10年研究である。小学校教師時代に学んだことが、後の大学教育の研究基盤を確実なものにした」
佐島さんは現在、長年にわたって取り組んできた環境教育の研究を、さらに深めるとともに、長く追い求めてきた「授業臨床学」の実例研究をまとめている。
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