西陣意匠紋紙工業協同組合元理事長・西陣織紋様意匠師
及川光夫
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「瑞宝単光章」受章祝賀会での及川光夫さん

 
 
 
 
西陣織
東日本大震災からの復興を祈願し、制作した「西陣織六曲二双屏風」(奥州市所蔵)


絵が得意だった少年時代

 及川光夫さんは、小学生のときから、自分で絵を描いたり、物を作ったりすることが好きだった。まだスケッチブックや画用紙が高価だった時代。残り物の紙を利用し、鉛筆で目の前に見える山などの景色を描いていた。
 玉里中学校には美術部がなかったので、部活は柔道や剣道をしていた。だが、帳面に風景を描くことはやめなかた。
 昭和29年4月、岩谷堂高校の農業部林業科に入学した。農業部の授業では、製図の時間が好きだった。また、本立や椅子、工芸品など身近なものをつくる設計が得意だった。
 岩高在学中、描いた絵を展示会に出品すると入賞した。光夫さんは「入賞したことで、絵を描くことが病みつきになった」と笑う。

西陣の意匠工房に就職

 岩高3年生のとき、先生から「京都の西陣に絵を描く仕事がある」と勧められた。光夫さんは「『西陣』は聞いたことがあったが、織物、紋彫り、紋屋など実際の仕事がどうなのかは、全く分からなかった」と言う。
西陣織は20以上にも及ぶ細かな工程から成り立っている。光夫さんが就職した京都市上京区の職場は、製作製造の前工程にあたる紋意匠(デザイン)の工房だった。
 最初は筆1本持たせてもらえなかった。就職してから1年以上、先輩たちの仕事の準備や後始末ばかりしていた。
 先輩たちは図案を描いていた。画紙に筆で書く。色も使う。焼き墨で形を作る……。それらの様子を見ながら、独習で意匠を学んだ。

「京都・西陣」というところ 

「京都はいろいろな面で特別過ぎますね。独特な言葉がありますが、意味が分からなかった。それに京都の人たちは、すぐには信用してくれません。ましてや西陣や祇園は古さの代名詞みたいなところ。私なんか2、3年は、どこの馬の骨かと思われていたと思います」
光夫さんが就職したころと同時期、岩手から来た若者が何人も西陣で働いていたが、数年後、光夫さんのほかは、一人も京都に残らなかった。そんな独特な京都で、なぜ光夫さんは仕事を続けてこられたのか。
「まず私が京都を好きだったことが挙げられます。古い都、永く奥深い歴史。中学生のころから、京都には魅力を感じていました。日本のふるさとという感覚が、私の心の中にあったのだと思います」
加えて、和装の意匠を考案するという仕事が光夫さんに、ぴったり合った。
「着物や帯の絵は想像上の絵です。それを考えるのが楽しかった。自分が創作したデザインが、たとえば帯になり、利用してもらえることに喜びを感じました」

27歳で工房を設立、変革期を克服

 昭和30年代後半、長い伝統を誇る西陣織の世界にも、機械化、コンピューター化の波が襲う。絵を描くことは好きだが、機械になじめないという職人は、仕事を辞めていった。
「それまで手書きだったものが、コンピュータ化されていった。そのときは多くの仲間が去っていきましたね。自分がやりたい仕事ではないと言って」
 光夫さんは、これらの変革に対応し、克服していった。紋意匠デジタル化のコンピュータ開発は、当初から手掛けた。
 光夫さんは昭和32年、27歳のときに独立する。京都市北区紫野に紋紙意匠の工房を構え、「有限会社美工苑」を設立した。
「紋処理システムを導入するときには、乗るかそるかの勝負でした。得意先の織屋さんのご理解の賜物です」
 同年、紋様同志会に参加。その後、青年会長を務め、 若手の仲間とともに、伝統織物の機械化・デジタル化に対応できる人材育成に力を注いだ。若い世代にも魅力を持ってもらうためだ。
「その当時は、日常でハード、ソフトの言葉はほとんど使われていませんでした。私にとってのコンピュー開発は、一冊の本にまとめ上げられるくらいの体験をしましたね」

意匠紋紙の発展に貢献

 光夫さんは、平成元年に、西陣意匠紋紙工業協同組合の理事長に就任する。平成13年、西陣織における卓越した紋紙意匠を評価され、経済産業大臣より、「日本の伝統工芸士」の認定を受けた。
 平成22年には、光夫さんが編纂委員長となり、後継者育成のための実習教本『西陣の紋をつくる』を刊行。西陣で初めて紋紙意匠の制作工程を画像とともに解説した。
 平成23年、光夫さんは永年にわたる西陣織への貢献により、西陣織工業組合理事長の岡本忠雄氏とともに、「瑞宝単光章」を受章した。10月19日に京都ブライトンホテルにおいて、二人の受賞祝賀会が催され、関係者や知人120名から祝福を受けた。

「西陣織六曲二双屏風」を奥州市に寄贈

 平成26年、光夫さんは奥州市に「西陣織六曲二双屏風」を寄贈した。光夫さんが制作した美しい数種類もの西陣織をあしらった屏風の大作である。
 東日本大震災からの復興を祈願し、1年半をかけて、精魂込めて制作したもの。作品には、伝統工芸「西陣織」継承の同志である西陣織工業組合・渡邉隆夫理事長による「使用された裂地は全て高級西陣織であることを証明致します」との証明書が添えられている。

※及川光夫氏のご厚意により、『岩谷堂高等学校100年史 凜とひと筋に』の表紙に、及川氏の作品「西陣織六曲二双屏風」(奥州市所蔵)を撮影、クローズアップした写真を使用させていただきました。

取材協力/門脇生男氏(昭和32年3月、岩谷堂高等学校普通部卒業。及川光夫氏とは玉里中学校と岩谷堂高校で同級)

 

 ■PROFILE■ おいかわ こうふ

昭和32年3月 岩谷堂高等学校卒業(林業科第8回)
江刺郡玉里村生まれ。京都市北区在住。

[略歴]
昭和32年 有限会社美工苑を設立。
昭和42年 紋様同志会 会長に就任。
平成元年  西陣意匠紋紙工業協同組合 理事長に就任。
平成13年 経済産業大臣より「日本の伝統工芸士」(意匠部門)に認定。
平成19年 奥州市より奥州大使に任命。
平成22年 実習教本『西陣の紋をつくる』編纂委員長を務める。
平成23年 「瑞宝単光章」受章。
平成23年 京都岩手県人会 会長に就任。
平成25年 奥州市より奥州名誉大使に任命。
平成26年 「西陣織六曲二双屏風」を奥州市に寄贈。
令和元年  関西奥州会会長に就任。
※関西奥州会は、京都近郊を中心に奥州市の物産展を開催するなど、積極的に奥州市のPRに尽力している。

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