高校時代、生涯の恩師と出会う
千葉翠さんは、岩谷堂高等学校農業部在学中、同じ江刺・稲瀬在住の柔道部顧問、高橋康教諭に指導を仰ぎ、本格的に柔道に取り組むようになった。
卒業後は、国士舘大学体育学部に進学し、柔道部に所属。体幹が強くなった大学時代は、全日本学生選手権大会、全日本柔道選手権大会、国体などで好成績を挙げた。
国士舘大学を卒業後、一関修紅高等学校の体育教師として3年間勤務し、昭和44年からは岩手県警察に入る。警察本部主幹兼主席師範、術科調査官、警察学校教頭、警察本部警務部教養課長などの要職を歴任し、平成13年3月に退職した。同年4月からは岩手県ハイタク交通共済業務部長を務め、平成22年に退職した。現在は岩手県柔道連盟会長、講道館評議員を務めている。
バルセロナ五輪、女子決勝主審の栄誉
翠さんの柔道歴の中でも、特筆されるのは、国際審判員派遣と海外指導派遣の多さである。オリンピック、世界選手権、ワールドカップ、世界ジュニア大会と、柔道の世界四大大会全ての審判員を経験している。
バルセロナ・オリンピック(スペイン)とアトランタ・パラリンピック(米国)には、日本から唯一の審判員として派遣された。
バルセロナ・オリンピックでは、女子柔道が初めて正式種目に採用され、48キロ以下級で田村亮子が銀メダルを獲ったことで知られる。翠さんは、女子56キロ以下級の決勝主審を務める栄誉を担う。
1992(平成4)年8月1日。ミリアム・ブラスコ(スペイン)対ニコラ・フェアブラザー(イギリス)による決勝戦が、スペイン国王カルロス一世観戦のもとで行われた。
翠さんは「このうえない名誉を感じました。改めて正確で公正なジャッジを心がけたことを覚えています」と当時を振り返る。
「形」の第一人者
翠さんは柔道の「形」の第一人者でもある。昭和63年4月、柔道の創始者・嘉納治五郎の没後50年祭では、治五郎ゆかりの天神真楊流と起倒流の形を奉納した。その際、講道館門人を代表し、国士舘大学と警察大学校の恩師、醍醐敏郎現在10段と、起倒流の「古式の形」の演武を披露した。
平成20年1月、講道館鏡開き式においては、門人代表として嘉納講道館長に賀詞を言上する大役を担う。
平成24年4月、翠さん70歳のとき、講道館柔道9段に昇進する。当時、東北・北海道で、9段は翠さん一人であった。
海外指導派遣は50回以上
翠さんは、外務省海外文化使節、国際交流基金、日本柔道使節団から海外派遣され、日本の体育文化遺産である柔道を、海外へ普及する活動に携わった。
一関修紅高校に在職中の昭和43年2月、外務省海外文化使節として、自身初めて海外派遣され、エジプト、シリア、レバノン、トルコ、ギリシャで柔道の指導にあたった。この派遣以降、翠さんは中近東アラブ諸国、アフリカ、ヨーロッパなどへ度々派遣される。
昭和47年には、西アフリカ・セネガルのスポーツ省顧問として、前年結婚した芳子さんと首都ダカールに1年半滞在。ナショナルチームの指導にあたった。このほか、現在まで海外渡航歴は、優に50回を超えている。
「旭日双光章」を受章
これらスポーツ貢献の功績により、平成元年に岩手県教育表彰、平成15年に岩手日報体育賞、平成16年に文部科学大臣表彰(生涯スポーツ功労者)を受賞した。
平成20年11月3日。秋の叙勲で「旭日双光章」を受章。皇居豊明殿において、天皇陛下よりお言葉を賜った。
千葉翠さんは、後輩に向け、「人との出会いとめぐり合いを大切にしてほしい。私はいい恩師とめぐり会えたことで柔道の道に進むことができ、その柔道を通じて海外にも多くの友人ができました。人との絆を培うことができた」とメッセージを語った。
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