商業科の第1回生として入学
プロパー(個人会社)として、岩手県初のホンダディーラーとなり、県内全ディーラーの会長にも就任した渡邊康喜さんの夢のようなストーリーを紹介する。
康喜さんは、昭和38(1963)年4月、岩谷堂高校が岩谷堂農林高校と分離したあと、岩谷堂高校に新設されたばかりの商業科に入学した。岩高2年生のとき、東京オリンピックが開催されている。
康喜さん自身は、普通科志望だったと言う。
「親父が普通科は絶対駄目だと言うから、仕方なかった。先生からは、簿記1級とれば普通科の勉強をしていい、と言われた」
そこで3年生で習う銀行簿記を2年生のときに1級を取得した。
「だから商業科の勉強は、真面目にしていない。成績も悪かったはずだ。受験科目は、みんなより良かったかも」
高校生活は精力的に行動した。1、2年生のときはクラス委員長に指名され、3年生には応援団リーダーを務めた。
一度、東京で就職したが……
大学に進学したかった。しかし、父親の同意を得られないので、一度就職して働き、進学費用を貯めようと考えた。
岩高卒業後、東京に住んでいた伯父のつてで、池袋に本社がある城北マツダに就職。営業部に配属された。
「池袋だから、街を立教大学の学生が歩いている。いいなあって思った。自分も大学に行きたいと改めて思った」
ところが、思いがけない事態が起こった。
身体を壊し、1年半の入院
働き始めて半年経ったころ、体調を大きく崩してしまった。原因は栄養失調。大学に進む費用を貯めるため、なるべくお金を使わないようにと、食費を切り詰めていた。
「3カ月も4カ月も、毎日インスタントの袋ラーメンばかり食ってた。ある朝、洗面器で顔を洗っていたら、鼻血が出て止まらなくなった」。洗面器の水が真っ赤に染まった。
江刺に帰省して、菊地医院に入院した。菊地先生からは、「治癒するまで時間がかかるよ」と言われた。
「半年も入院した。昼は寝ているが、夜は猛勉強していた。入院していたのだから、仕事はしていない。でも給料はもらっていた。大学に合格して名古屋に行くまでもらっていた。給料の6割が出たんだ。保険も下りた」
入院が影響し、大学受験は岩高を卒業してから2年後になった。
中京大学に合格。名古屋へ
「東京の私立大学を受験したが、全部不合格だった。それで2次募集があった名古屋、大阪、京都の私立大学を、その大学まで行って受験したんだ。そのうち、いくつか合格して、名古屋の中京大学に入学したわけさ」
受験していたのは法学部法律学科。当時から法学部は就職がよかった。試験は同じ大学の他の学部より難しかった。
「授業料は中京が一番安かった。最初は学生寮に入った。お金がなかったからね。親は相変わらず大学のことには反対していた」
いろいろな資格を取りまくる
康喜さんの経歴を見て、取得した資格の多さ、種類の多様さに驚愕する。
「何か資格があれば、食っていけると思って、大学在学中から、資格試験を受けまくった」
自動車関係の免許は、全部取ろうと思っていたという。自動車自体は好きだった。
「親父の仕事とは関係ないよ。一生のうち、いつか乗るかもしれないと、バスの免許まで取得した。資格を取ることなんて、そんなに難しくないよ」
取得した資格、合格した認定試験は、自動車関係にとどまらない。調理師免許、高校教諭2級免許、図書館司書免許、小型船舶操縦士免許、狩猟からスカイダイビング、柔道の段位まで数えると、優に30を超える。
証券会社に就職したが……
中京大学卒業後に就職した会社は、名古屋に本社があった丸万証券。
「先輩から、この証券会社はアメリカに行かせてくれる、と聞いていたので選んだ。世界経済の中心、ニューヨークのウォール街に行ってみたかったのさ」
働き始めたある日、突然、父親と母親が名古屋まで訪ねてきた。
「康喜、家に帰ってくれと言うんだ。帰りたくないと断った。親父が言いたいことは、ツナギを着て自動車の整備しろ、ということだと分かっていたよ」
康喜さんは、「大学まで出て、俺はそんな生き方したくない」と思ったが、「お前がやりたいようにやっていい」と言うので、その言葉を信じて江刺に戻った。
中古車業を弟に譲る
「好きなようにやっていい」と言うので、岩谷堂・八日市の狭い土地で中古車を売り始めたら、思いのほか売れた。そこで現在の東北銀行江刺支店のところの土地を借りて、中古車売場を拡大したら、これまた売れた。
「そしたら、またも親父が、中古車屋は弟に譲れ。お前は整備工場に来いと言うんだ。だまされたと思ったね。整備工場は絶対に継ぎたくなかった。親父とは考え方が違うから、家を出ると言ったんだ」
レストランを開業し大当たり
何か事業を起こそうと思った。稼ぎたかった。一関にある国民金融公庫に融資の相談しに行くと、担当者が「何か資格はありますか?」と聞いてきた。「あります」と答えて、取得していた資格のリストを見せたら、その数の多さに、「なんだ君は」と驚かれた。
調理師免許も持っていたので、融資を受けることができ、水沢駅前にレストラン「ノーブル」を開業した。これが大当たりした。
「稼いだね。今から40年くらい前だろ。東北自動車道の工事、東北新幹線の工事関係者が毎晩来てくれた。当時は接待に使われたんだ。つまり接待費で潤ったのさ。夜遅くまで営業したこともよかった。レストラン経営は、時期折りにぴったし合ったんだね」
エビの頭付き料理やステーキなど、豪華料理の注文が次々と入った。一日40万円売り上げた日もあった。
「私は調理しない。経営者さ。レストランはうまくいった。考えられないほど儲かった。時代を読めたというか、ピンチをチャンスに変えることができた。でも、レストランは3年半で権利を譲ったんだ。あのまま自分が続けていれば、きっと駄目になっていただろう」
水沢で中古車業を始めて3年後
昭和54年3月、水沢市秋葉町に「水沢マイカーセンター」を設立。開業後、順調に売上げを伸ばした。
3年ほど経ち、花巻店を開業した。ある日、本田技研の岩手県責任者から、「食事でもしませんか」と誘いがあった。「なんだろう」と不思議に思ったが、会うことにした。
その責任者といろいろ話して驚いた。自分のことが全部調べられていた。証券マン時代に、ウォール街に憧れていたことまで知っていた。要件は「ホンダのディーラーをやってみる気はないか」ということだった。仰天した。青天の霹靂だった。
ホンダからディーラー契約の誘い
本田技研は、岩手県内で販売契約を交わせる会社と人材を探していたのだ。
「ホンダから誘われているんだ」
妻の健子さんに話すと大反対された。「今、中古車販売が順調なのに、これ以上広げる必要はないんじゃない」と言われた。
「私も男だ。お金があればいいというもんじゃない。ディーラーになってみたいし、名誉だって欲しい」
妻の反対を振り切って、康喜さんはホンダのディーラーになろうと決意をする。
自動車ディーラーは、その地域の老舗財閥系企業が行うことがほとんど。信用を最重要視するからだ。
「うちのようなケースは珍しい。まだ(ディーラーの空きが)残っていたんだね」
ディーラー開業への助走
本田技研と相談しながら、まず昭和57年11月、花巻市桜町にカーセンター花巻を開店。翌58年4月に、「株式会社渡辺自動車販売」を法人登記した。
だが、すぐディーラーになれたわけではない。お世話になっていた同業の先輩から、なかなか理解を得られないなど、さまざまな試練にぶち当たった。
昭和58年11月、「カーセンター花巻」を桜町から似内へ移転。翌59年1月、法人登記してカーセンター花巻を独立。
中古車販売の方は、昭和60年、北上市大通りに北上店をオープンした。
ホンダとディーラー契約を締結
昭和60(1985)年7月1日、本田技研工業株式会社と基本取引契約を締結した。同年11月11日、有限会社カーセンター花巻を「株式会社ホンダ岩手販売」に組織変更する。新しいホンダ系ディーラーが誕生した。
ホンダ岩手販売は、昭和61年2月、花巻空港店をオープン。昭和62年10月には、水沢店をオープンする。昭和62年11月、その水沢店に本店を移転した。
平成に入ると盛岡進出を計画。平成6年1月、盛岡市三本柳に盛岡南店をオープンする。
シビック、アコード、プレリュード、CRーX、トゥディ……。この時代、スタイリングに優れ、高性能のホンダ車は、若者の心を鷲づかみにしていく。
売上達成率全国3位でアメリカへ
平成7年8月、株式会社ホンダ岩手販売から、「ホンダプリモ岩手南株式会社」に社名を変更した。その年、ホンダプリモ岩手南は、快挙を成し遂げる。
およそ1200社のプリモ系法人のうち、売上げ達成率が全国第3位となったのだ。
「1995年 計画達成優秀法人賞」の表彰式には驚いた。ホンダがチャーターしたジャンボ機でアメリカへ飛び、なんとラスベガスで表彰が行われた。
ラスベガスに招待されたのは、上位300社の社長たち。達成率10位以内は、本田技研四代目社長の川本信彦氏と同じテーブルで会食する栄誉に恵まれた。
「都道府県ごとに販売台数の目標がある。その達成率が全国3位。簡単にできることではない。名誉なことだったし、川本社長と同じテーブルで食事なんて、夢みたいだった」
達成率、5年連続で上位に
「表彰式から帰国の途中には、ハワイに寄って、みんなでゴルフをした。そのゴルフ場はハワイアンオープン開催の実績があるパール・カントリークラブ。ホンダが所有しているんだ」
翌平成8年は、達成率全国6位。
「凄いな。10位以内が2年連続だもんね」
平成9年から平成11年にかけては、10位以内には入らなかったものの、はやり上位に入賞し、常務取締役で営業本部長の土橋哲氏より、「計画達成賞」を授与された。
何度も表彰式に出席しているうち、康喜さんは土橋常務と親しくなった。
社長を長男、健一郎さんに譲る
平成20年、社名を「ホンダカーズ南岩手株式会社」に変更。平成25年、代表取締役社長を長男の健一郎さんに譲り、康喜さんは取締役会長となった。
「長男の健一郎は昭和48年生まれ。今、私は71歳。歳を取ったから譲っただけさ。彼のやり方でやればいい。別に期待はない」
現在の売上高は、およそ44億円。従業員は100人ほどだ。新車の販売拠点は、北から盛岡南、矢巾、花巻空港、北上南、奥州中央、奥州南の6店舗。中古車販売は、水沢・佐倉河の「オートテラス水沢」で行い、本社機能はここに置いている。
本当に好きな趣味は…
「趣味は釣りさ。 海でも川でもいいが、渓流釣りが好きだ。和賀川の源流の方へ行くよ。本当は釣りそのものより、道具作りが好きなんだ。ほらっ」と、自宅2階の壁に掛かるいくつもの道具や仕掛けを指さす。
驚かされるのは海外旅行の多さだ。すでに海外渡航は30回を超えている。主に世界遺産を訪ねているという。
「忙しいのに、よく時間を見つけて旅行に行くね、とは言われる。世界遺産は国内を合わせると60カ所くらい行った。どんな国でも特徴がある。世界遺産のマチュピチュには、素晴らしい文化があっても、文字がなかったんだよ」
釣りと世界遺産巡りが趣味かと思いきや、一番の趣味は、さらにこだわったものだった。
「初版本集めが好きだな。年に何回か東京のデパートなどで展示即売会が開催される。値段は一冊数十万円したときもある。これが大江健三郎。これが芥川龍之介の古書本。三島由紀夫や川端康成の本もあるよ。なぜ好きかって? 時代の匂いがするからさ」
書棚には、ずらりと文豪たちの初版本が並んでいる。まさに圧巻だ。
旧緯度観測所の保存活動に尽力
康喜さんは、若いときに苦労をし、経営者となってからは大きな業績を残して、現在の地位を築いた人だ。なのに、とても気さくな人柄で、尊大なところがない。
現在は、世の中に恩返しをしたいという思いから、自動車関係団体、経済団体の役職を数多く務めている。その数は数えきれない。
社会活動にも貢献している。青少年の健全育成活動に協力しているが、特筆すべきは、平成17年11月から特定非営利活動法人(NPO)「イーハトーブ宇宙実践センター」の副理事長を務めていることだろう。
日本初の国際的観測施設、緯度観測所本館は、大正10年に建てられた。昭和42年まで使用されていたが、老朽化に伴い、平成17年10月に取り壊しが決まる。
康喜さんは、宮沢賢治とゆかりの深い、この建物の保存活動に関わった。康喜さんが副理事長に就き、有志と共に国立天文台、奥州市、奥州市議会などに働きかけた。平成18年2月の市民集会を経て、歴史的な価値を持つ本館建物の譲渡と保存を実現した。
スポーツカーの疾走は続く
現在、保存された旧緯度観測所の本館が、「奥州宇宙遊学館」としてリニューアルされ、子どもたちの科学教育に活用されていることは、衆知の通りである。
「平成18年の10月、理事長の大江昌嗣さん(元国立天文台教授)たちと一緒にハワイに行き、すばる天文台で望遠鏡を見てきた。天文台は標高4000メートル以上の場所にあった。麓が真夏でも望遠鏡がある場所は寒い。星を見に行くことは大変だ」
渡邊康喜さんが運転するスポーツカーは、銀河鉄道のように宇宙に飛び出した。疾走は続く。まだまだロマン街道の終点にたどり着きそうもない。
|