札幌・インスブルック冬季五輪 日本代表サラエボ冬季五輪 日本代表監督  元日本ボブスレー・リュージュ連盟事務局長
佐藤力夫
佐藤力夫1
佐藤力夫さん
佐藤力夫2

パイロット鈴木昭彦
ブレーカー佐藤力夫

佐藤力夫3

 

佐藤力夫4

 

佐藤力夫5

 

北海道出身者からの誘い

 佐藤力夫さんは、岩谷堂農林高校農業土木科の卒業生だ。岩農では野球部に所属。4番打者、投手として活躍した。卒業後、日本大学農獣医学部農業工学科に進学する。
 大学でも野球をしようと考えていたが、入学して初めてできた友人が、北海道の出身だったことが力夫さんの運命を大きく変える。
「札幌で冬季オリンピックが開催されることを知っているかい? 君も冬の競技を何かやってみないか」
力夫さんは「野球もいいが、オリンピック種目もいいな。頑張ってみようかな」と考え、その友人や仲間たちと、「一緒に何か五輪種目をやろう」と話し合った。

日大ボブスレー同好会を結成

 その当時、冬季五輪競技の中には、まだ日本で馴染みのない種目がいくつかあった。
 リュージュ、スケルトン、ボブスレーは、それまで日本が一度も出場したことがなく、力夫さんは当時、これらの競技があることさえ知らなかったという。
 ボブスレーのそりは、機体が鋼鉄製。半チューブ状に造られた氷上コースを、時速120キロ以上で滑り、タイムを競う競技だ。2人乗りと4人乗りがある。機体は流線型で、幌のない小型自動車のような形をしている。F1のレーシングカーを、そりにしたようなものと考えると理解しやすい。搭乗者はヘルメットを被る。
「ボブスレーの方が、リュージュやスケルトンより少しは安全だろう」
 日大1年生の力夫さんは、3年生の先輩や同級生たちとボブスレー同好会を結成した。

JOC海外派遣メンバーに選出

 五輪初参加を目指す日大ボブスレー同好会は、札幌で合宿を行う計画を立て、手探りでボブスレーの練習に取り組み始めた。まず札幌市内の三角山に自分たちでコースを造り、木製のそりで練習を始めた。
 熱心に練習に取り組んだ力夫さんは、日本トボガニング連盟より海外遠征チームの派遣選手に選ばれた。ボブスレーの本場、ヨーロッパでの合宿が多かった。
 力夫さんは昭和43(1968)年、フランスのグルノーブルで行われた冬季オリンピックに非公式で参加している。力夫さんは開会式に参加し、その後、ボブスレー競技を中心に観戦視察をした。

地崎組に入社し、札幌五輪を目指す

 昭和45(1970)年に日本大学を卒業し、札幌に本社を置く北海道最大手の建設会社、地崎組に就職した。夏は技師として工事現場で指揮を執り、冬はボブスレーの強化合宿や遠征に参加した。
会社からの支援を受け、力夫さんは世界選手権などの大会に出場した。地崎組(後の地崎工業)所属の選手では、後に秋本正博や葛西紀明らがジャンプ競技で活躍する。
 ボブスレー競技は2人乗りと4人乗りの2種目あるが、2人乗りの場合、前席で運転する役目を「パイロット」、後席でスタート時に機体を押して走る役目を「ブレーカー」と呼ぶ。ブレーカーは、機体を停止させるときはブレーキの役目を果たす。
 力夫さんは欧州各国の連盟から、「佐藤はブレーカーとして素晴らしい働きをする」と高い評価を得るようになる。

地元江刺は大騒ぎ、日の丸に寄せ書き

 ふるさと江刺市愛宕では、オリンピックが近づくにつれて、「愛宕出身者が札幌オリンピックに出場する」と大騒ぎになっていった。近隣の住民から実家に、寄せ書きされた日の丸が届いた。
 札幌には江刺から両親が応援に来た。が、札幌に到着して間もなく、祖母のはつせさんが倒れたとの知らせが入る。やむなく父親の正志さんが江刺に戻り、母親のキヨさんと叔父の勇作さん(キヨさんの弟、岩見沢市在住)が応援した。幸い、はつせさんは容態を持ち直す。
 生前、正志さんは「オリンピックで、力夫がボブスレーに乗る姿を見たかった」と残念がっていたという。

日本ボブスレー、五輪初出場の感動

 1972(昭和47)年2月4日、日本ボブスレー選手団は、日本五輪史上初めて冬季オリンピックに出場し、日本のスポーツ史にその名を刻んだ。競技会場は手稲山ボブスレー競技場。力夫さんは「日の丸を背負うと、気が引き締まった」と当時を振り返る。
札幌冬季五輪の成績は、4人乗りが12位、2人乗りが21位。力夫さんは「私たちは精一杯やった。海外の選手はトータル的にうまかった」と感想を抱いた。以後、持論として「経験が一番大事。できる限り海外で練習しないと勝てない」という考えを持つに至る。
 力夫さんは、1976(昭和51)年2月、オーストリアのインスブルックで開催された第12回冬季オリンピックにも出場した。
「五輪の2大会を精一杯戦った。悔いはない」 インスブルック大会を最後に、力夫さんは選手を引退。五輪終了後の4月、選手仲間が所属する北海道の会社に勤務していた令子さんと、水沢の駒形神社で結婚式を挙げた。

代表監督、連盟役員、事務局長として尽力

 力夫さんは1984(昭和59)年、サラエボ冬季オリンピックのボブスレー日本代表監督を務め、その後、日本ボブスレー・リュージュ連盟の役員となった。平成元年、事務局長に就任。連盟では慢性的に運営費が不足していたが、国からの補助金はわずか。あとは連盟の負担だ。そのため、スポンサー集めに奔走する日々が続いた。「日本の弱小スポーツ団体は大変なんです」と苦笑いする。
 力夫さんは最後に、「自分のできる範疇で頑張れば、事は成る」という言葉を語った。岩農、岩高、江刺高を通じて唯一、五輪日本代表として活躍した先輩の言葉である。

 ■PROFILE■ さとう りきお

昭和41年3月 岩谷堂農林高等学校農業土木科 卒業。
日本大学農獣医学部 農業工学科卒業。
昭和22年6月、江刺市愛宕生まれ。北海道札幌市在住。
昭和45年4月、地崎組(後の地崎工業)に入社し、33年間在職。

[競技経歴]
1966年 日本大学ボブスレー同好会に入会
1967年 ボブスレー日本代表として欧州に派遣
1968年 グルノーブル冬季五輪に非公式参加
1969年 第1回全日本学生選手権大会 初代チャンピオン
1972年 札幌冬季五輪日本代表
1976年 インスブルック冬季五輪日本代表
1980年 レークプラシッド冬季五輪 競技役員として出場
1984年 サラエボ冬季五輪 日本代表監督として出場
1988年 カルガリー冬季五輪 支援役員として参加
1989年 日本ボブスレー・リュージュ連盟 事務局長に就任
1994年 日本ボブスレー・リュージュ連盟 事務局長を退任

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