「岩手吹奏楽のレジェンド」
国内における最大のスポーツイベント、国民体育大会。47都道府県を巡る国民体育大会は、単純計算で47年に一度しか訪れない祭典だ。岩手県では、昭和45年と平成28年の二度開催されている。
国体の開会式を華やかに彩るのが吹奏楽によるファンファーレだ。この栄誉ある岩手国体での演奏を二度経験した、ただ一人のプレイヤーが岩谷堂高等学校の卒業生にいる。
「岩手吹奏楽のレジェンド」と呼ばれている菊地憲一さんである。
トランペットとの出会い
憲一さんが楽器に興味を抱いたのは岩谷堂小学生のとき。音楽の授業でハーモニカやリコーダーを演奏し、楽器演奏の楽しさを知った。岩谷堂中学校で吹奏楽部に入部。だが、1年生のときは、トランペットのパートに空きがなく、トロンボーンの担当に。しかし、トランペットの音色とかっこよさに惹かれ、一人隠れてトランペットを練習していた。
2年生となり、卒業した3年生のトランペット・パートが空く。部内オーディションに、すかさず立候補。憲一さんは完璧にトランペットを吹き、顧問の先生と先輩を驚かせた。
「音楽に関われる仕事をしたい」
岩谷堂高等学校の2年生のとき、吹奏楽部が吹奏楽コンクール(Cクラス)に初出場。何と優勝に輝いた。初めて音楽部と合同で演奏会を開催したのもこの年だった。
部活動を重ねているうちに、あっという間に3年生。進路を決めなくてはならない。同級生たちは、就職、進学へと進む道を決めていく。自分はどの道を選べばいいのか。大好きな音楽に携われる仕事はないものだろうか。進路に迷う日々が続いた。
そんなとき、人生の転機となる出来事が起きる。自衛官の募集に岩高を訪れた自衛隊の広報官と話し、自衛隊音楽隊の存在を知った。
「自衛隊に入れば、音楽を続けられる」と考えたが、入隊すれば、厳しい訓練が待ち受けている。体力や運動能力に自信があるわけではなかったが、憲一さんは「音楽を続けられるなら」と入隊を決意した。
昭和42年、自衛隊に入隊。配属先は陸上自衛隊岩手駐屯地(滝沢)。入隊後、日夜厳しい教練を受けながら、岩手駐屯地の音楽隊に所属。演奏技術の向上に励んだ。
昭和45年の岩手国体で
自衛隊入隊から3年。音楽隊に大役が舞い込む。それは昭和45年、岩手県で初めて開催される国民体育大会開会式での演奏依頼。式典音楽隊への参加要請だった。
昭和45(1970)年10月10日、晴れ渡る秋空の下、盛岡市みたけの県営運動公園。第25回国民体育大会開会式。陸上自衛隊、岩手県警、国鉄の三音楽隊に高校生の演奏が加わる。まず隊列を組み、総勢約800名で演奏しながら行進した。
「国体の開会式で、この俺がトランペットを吹いている」
客席を埋め尽くした観客から、われんばかりの拍手と歓声を浴びながら、行進する音楽隊の足取りは軽やか。菊地さんの胸は誇りに満ちあふれた。
その後、音楽隊では隊長まで務めた。自ら「音楽漬けで過ごした」と話す定年退職までの約35年間。全国各地の式典やイベントなどで、約2000回の演奏を行ったが、昭和45年の岩手国体演奏は特別であり、「一生忘れられない思い出」と胸に刻んでいた。
46年後、再びの演奏要請
憲一さんは自衛隊在職中の昭和46年から、一般社会人で構成する盛岡吹奏楽団に在籍。除隊後も、その一員として週2回の演奏を楽しんでいた。
平成27年、そんな菊地さんに、信じられない連絡が届く。平成28年(2016)に開催される「希望郷いわて国体」の式典音楽隊に参加して演奏をしてほしい、との要請だった。
「岩手吹奏楽のレジェンド、菊地憲一さんに、再び国体のファンファーレを演奏してもらいたい」
岩手県吹奏楽連盟が菊地憲一さんを大会事務局へ推薦した。しかし、憲一さんは、すでに自衛隊を退職しており、出演予定団体に所属していない。大会事務局は最初、「前例がない」と難色を示した。だが、吹奏楽連盟関係者は「彼がいないと始まらない」と粘り強く事務局に説明した。
その熱意が実を結ぶ。46年の歳月を隔て、再び憲一さんに白羽の矢が立った。
二度の岩手国体で演奏の栄誉
平成28年10月1日、第71回国民体育大会「希望郷いわて国体」開会式会場の北上総合運動公園。
その陸上競技場に、式典音楽隊で演奏を行う団体を紹介するアナウンスが流れる。
「吹奏楽演奏は、岩手県警察本部音楽隊、陸上自衛隊岩手駐屯地音楽隊……」
そして、「元陸上自衛隊 岩手駐屯地音楽隊 菊地憲一さん」。
唯一個人名のアナウンスが会場に響き渡る。岩手国体二度目の大役、憲一さんにとって、生涯忘れられぬ栄誉の瞬間である。
この日、菊地憲一さんのトランペットが、再び岩手の大空に響き渡った。
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