岩高創立50周年式典で明るく軽快な演奏を披露
平成30年11月17日、岩谷堂高等学校創立100周年記念式典が、奥州市江刺体育文化会館「さららホール」で挙行された。
式典後、記念演奏会が行われた。この日、ステージに登場したのは、卒業生の石川道久さん率いる楽団「THE SKA FLAMES」(スカフレイムス)。陽気で軽快な音楽が記念の日に華やかさを添えた。
スカフレイムスが演奏する音楽は、2拍目と4拍目を強調したリズムが特徴で、「スカ・ミュージック」と呼ばれている。1950年代にカリブ海に浮かぶ島国、ジャマイカで誕生した。ジャマイカは近年、ボルトをはじめ、陸上競技の活躍で知られている国だ。
ジャマイカは独立前、イギリス領だったため、スペイン語が多い中南米では珍しく英語を話す。スカ音楽が生まれたのは、米国ニューオーリンズのラジオ局から聞こえるリズム&ブルースが影響したとも言われている。
記念演奏会のステージに上がったプレーヤーは、管楽器を中心に総勢13名。道久さんはアルトサックスを演奏した。
岩高吹奏楽部でアルトサックスを担当
授業をさぼり「はっぴいえんど」目撃
石川道久さんは、江刺第一中学校の吹奏楽部で、アルトサックスを吹くことになってから、この楽器が大好きになった。岩谷堂高校の吹奏楽部でもサックスを吹くことに。高橋和夫先生が指導していた時代だ。
とにかく音楽が好きだった。演奏することだけでなく、さまざまなジャンルの音楽に興味を持ち、たくさんのレコードを聴いた。石川さんは、こんなエピソードを持つ。
昭和47年(1972)に解散した「はっぴいえんど」が再結成され、再びファンの前に現れることになった。「はっぴいえんど」とは、大滝詠一(江刺出身)、細野晴臣、松本隆、鈴木茂が結成した日本ポップス史上伝説のロックバンド。
昭和60年(1985)6月15日、国立競技場で行われた再結成のステージ「国際青年年記念All Together Now by LION」を、石川さんは岩高2年生のときに目撃している。
この日は土曜日。岩高の授業があったが、どうしても四人の姿を見たかった。道久さんは結婚式に出席すると偽って学割を申請。東北新幹線で東京へ向かった。
好きなことは頑張るが…
岩高3年。吹奏楽部員の中には、音楽大学への進学を目指し、勉強、実技と頑張る同級生の姿があった。クラスメイトが次々と進学、就職と目指す進路を決めていた。
ある日の授業中、わるい友達が担任の先生に向かって、「道久、こいつ、まだ何もやってませーん」と暴露。そのとき道久さんは「今週中に決めます」と言ってしのいだ。
父親は「大学に行くのだろう」と期待していたが、そうなりそうもないと自分では分かっていた。成績が教科によって極端に差があったからだ。好きなことには夢中になり、集中して一生懸命取り組むが、嫌なことはできない性格を自分でも分かっていた。
しかし、進路について全く考えていなかったわけではない。自分に合った音楽学校がないかと探し、クラシック音楽とジャズを学べる東京・調布市の武蔵野音楽学院という学校を見つけた。そこでは道久さんが知っているサックス奏者の土岐英史や、著名な演奏家が指導していた。
サックスを買ってもらい、武蔵野音楽学院に入学
「この学校で習いたいな」と思ったが、そもそも、楽器をも持っていないことに気づく。
岩高を卒業した1987年4月、「東京で音楽を勉強したい。楽器を買ってほしい」と両親を説得し、母親と一緒に東京へ向かう。
お茶の水の楽器店を訪ね、「アルトサックスを見せてください」と言うと、立派な試奏室に招かれ、新品のサックスを20台ほど並べられた。
「母親が付き添って来ているのだから、現金で買うだろうと思われたのでしょう」
自分が一番吹きやすかった定価39万円のアルトサックスを25万円にまけてもらい、買ってもらった。このとき、購入したサックスはとても気に入り、あれから30年経った現在も使用している。
親戚のパン屋でバイトをしながら、さまざまな音楽の見聞を広める
武蔵野音楽学院では、音楽理論も教えてもらったが、黒板で教わることには、あまり興味がわかなかった。週1回のレッスンやアンサンブル練習が楽しかった。
親戚が東京・三鷹市でベーカリーを営んでいた。道久さんは、ここでアルバイトをしながら音楽学院に通った。
学校のある調布市やアルバイトをしていた三鷹市から、そう遠くない中央線沿線の吉祥寺や高円寺、そして渋谷にはライブハウスがたくさんあった。親戚のよしみでバイト時間を融通してもらい、それらの町にライブを何度も聴きに行った。
このころ偶然、吉田達也さん(岩高昭和54年卒)が率いる「ルインズ」の演奏を高円寺で聴いている。「すごいドラマーがいる!」と思ったが、そのドラマーが岩高吹奏楽部の先輩だと知ったのは、しばらく後になってからのことだった。
音楽学院を卒業し、ベーカリーでアルバイトを続けながら演奏活動を行った。ジャズやポピュラーのバンドと知り合い、さまざまなセッションで経験を積んだ。
突然訪れた人生の転機
スカフレイムスに参加
1990年、道久さんが21歳のとき、人生の転機が訪れた。
世田谷区下北沢で「BUD NICE」(バッドトナイス)という理容店が目についた。店頭や店内に、BBキングなどのブルースやレゲエのボブ・マレー、スカ音楽の創始者「スカタライズ」のレコードが飾ってあった。
この頃、道久さんは「近ごろは身内とのセッションばかりで、どうも新鮮味がないな」と思い始めていた。また、レゲエやスカなど中米音楽を聴き始めた時期でもあった。
「変な床屋だな」と思いながら、髪を刈ってもらっていると、店主が「君、どこの出身? おう、岩手。僕は山形。バンドやってるの?」と尋ねてくる。ほどなく仲良くなり、お酒を飲みに行く間柄になった。
ある日、「相談があるんだ。知り合いのバンドのメンバーが一人足りない。1カ月後にライブがあるが、サックスがいないんだ。君を紹介していいかな? 手伝ってもらいたい。君の性格は素直そうだし、音楽をたくさん聴いているし……」
そのバンドが「スカフレイムス」だった。道久さんはファーストCDを持っており、どんなバンドか、大体のことは知っていた。
後日、居酒屋でメンバーから紹介を兼ねた面接を受けた。道久さんは「僕の演奏を一度も聴いていないのに、いいの?」と首をかしげたが、「手伝ってほしい」と言われ、参加が決まった。
縁とは不思議なもので、道久さんの人生における節目の出会いは、突然やってきた。
「僕が入ったとき、スカフレイムスは結成してから5、6年目。クラブ・カルチャーでは結構有名なバンドで、すでに人気があった。不思議な出会いでしたね」
道久さんはセカンドアルバムからレコーディングに参加している。スカフレイムスは、メンバーの一部を入れ替えながら、平成30年で結成33年目を迎えた。長い歴史を刻んでいるスカバンドなのである。
TEL SKA FLAMES(スカイフレイムス)
実力派バンドのメンバー、昼は別々の顔を持つ
スカフレイムスにはリーダーがいない。何を決めるにも合議制をとっている。メンバーがミュージシャン専門ではなく、それぞれ仕事を持っているのも特徴。全員が別の仕事に就いている。たとえば、ギター担当は大手楽器店の課長、もう一人のサックス奏者は大手印刷会社勤務、トランペッターは介護関係会社、モデル事務所のマネージメントをしている者もいる。
メンバーは土曜の夜に集まり、練習をしている。ライブ出演は、ほぼ夜か休日なので対応できるのだ。当初はプロダクションや事務所に所属せず、業界では権利を譲らないバンドとして知られていた。現在はマネージメントを自分たちの手で行っている。
祝賀パーティーのソロ演奏で喝采
石川道久さんも、大手乳業メーカーの多摩工場で受付の仕事をしている。この工場は2年前、創業50周年を迎え、工場内のホールで記念祝賀会が催された。
「石川さんは、ただ者でない」との噂を聞きつけたイベント担当者が、祝賀会余興での演奏を依頼。道久さんはパーティーのラストで演奏を任された。
即興演奏をしたあと、「オーバー・ザ・レインボー」をソロで演奏した。パーティー参加者は、美しくも迫力あるアルトサックスの音色に魅了される。
出席者は「あの受付の石川さんが……す、凄い」と絶句。それまで賑やかだった会場は静まりかえり、道久さんの演奏に聴き入った。
全国のビッグフェスティバルに出演
1993年にスカフレイムスは、スカ音楽界伝説のバンド、ジャマイカの「スカタライツ」日本公演をサポート。憧れていたバンドとの共演が実現した。
スカフレイムスは現在、実力派バンドとして、数々のフェスティバルで活躍している。プロ・アマに関係なく、そうそうたるミュージシャンが招かれる「フジ・ロックフェスティバル」に6回ほど出演。日比谷野外音楽堂や千葉マリンスタジアム、北海道で開催される「ライジングサン・ロックフェスティバル」への出演経験もある。
北海道から沖縄まで、ライブハウスでの演奏は数え切れない。この取材の翌々週には、奄美大島でのライブを控えており、独特の声質を持つボーカリスト、元ちとせさんとセッションが組まれていた。
まだ行ったことがない町で、自分の曲を演奏してみたい
道久さんは「石川道久セッション」という自分のバンドを持っている。バイオリンなどを加えた6人編成のアコースティック・バンドだ。
「いろんなアイデアがあるんです。それを試したい。行ったことがない県、行ったことがない町で演奏したいし、もっと作曲して、自分の曲を聴いてもらいたい」
今は「勉強をしたい。本も読みたい」と音楽のほか、好きな歴史やさまざまな分野の本を読みあさっている。
道久さんの手帳には、「人間は一生のうちに、会うべき人に必ず会える。一瞬早すぎず、一瞬遅すぎず」と書き留めてある。
誰の言葉かは分からないという。
|