漫画家
菊地かまろ
菊地かまろ1

菊地かまろさんがパソコンで
作成した自筆のイラスト

菊地かまろ2

14冊の単行本

菊地かまろ3


自宅で漫画を秘かに描き投稿

 小学館発行の少女漫画誌『ベツコミ』に作品を発表し、活躍中の菊地かまろ(本名・華乃子)さん。岩谷堂高等学校ではアニメ部に所属し、漫画やイラストの制作活動をしていた。
「文化祭が近づくと、大きな壁画に絵を描いたり、出品するセル画を描いたりしてました」
 アニメ部の友達とは、盛岡や仙台にスクリーントーンなど、漫画制作用の材料や道具を買いに行ったりしていたという。
「道具やペンを買いに行くのも大変でした。当時は値段も高く、高校生にはきつかったですね。インターネット通販がない時代でしたから」
 かまろさんが漫画制作に取り組んでいたのは、主に自分の部屋。「親にも内緒で、こそこそと自分の部屋で秘かに描いていました。怪しい少女でした」と当時を振り返り笑う。
 かまろさんは三人兄弟の2番目。兄と弟がおり、「ドラゴンボール」「スラムダンク」「らんま1/2」などの少年漫画を読むことが多かったという。少女漫画は、『別冊少女コミック(略称・別コミ)』(小学館)を小学生のころからよく読んでいた。
 岩高2年生のとき、「将来は漫画家になりたい」と思い、『別コミ』に初めて投稿した。その作品がいきなり銅賞に入選する。
 岩高卒業後は、本格的に絵を学びたいと、仙台デザイン専門学校イラストレーション科に進み、『別コミ』への投稿も続けた。

21歳のときに『別コミ』でデビュー

 1999年、専門学校を卒業し、仙台に住んでいた21歳のとき、『別コミ』の担当者から連絡が入る。
「菊地さん、デビューが決まりましたよ!」
 初めて掲載が決定した雑誌は、『デラックス別冊少女コミックス・秋の特大号』。掲載作品は、読み切りの学園コメディー「ブギースクール」だった。
 この雑誌は、やや小さな誌面(A5判)の隔月刊誌。ページ数は多く分厚つかった。
 かまろさんは書店に行って、自分の作品が本当に掲載されているのか確認してしまう。そのときは「心臓ドキドキ」だったそうだ。
「載ってる、載ってる。本当に掲載されている」
 一時は漫画家を志すことに反対し、「大丈夫なの? 就職しなくていいの?」と心配していた両親も、初掲載に大喜び。漫画家デビューを親戚中で喜んだ。

初連載は「悩殺ロック少年」

単発の読み切り作品ばかりを描いていたかまろさん。初の連載作品は、2005年から『別冊少女コミック』に連載した「悩殺ロック少年」だった。
 一話完結のつもりで描いた作品だったが、大反響を呼んだ。編集部経由で何通ものファンレターがかまろさんに届く。
 その文面には、「おもしろかった」「もっと読みたいから続けて描いて」などの感想がつづられていた。間もなく編集部から、「反響が大変良かった。この作品を連載にします」と連絡が入り、急きょ連載が決まった。
「悩殺ロック少年」は、ELLEGARDENという日本のロックグループの曲を聴きながら描いた。
「このロックグループをいくらかモチーフにしました。キャラは全然違いますけどね」
 ライブを見て取材したり、写真を撮影し、作画の参考にしたという。

「テンポは速いが、描くのは遅い」

連載開始だと喜んでばかりはいられない。つまり原稿締切が定期的、かつ確実に訪れるということだ。
「続けて描いている漫画家さんって、すごいなと思っていました」。それが他人ごとではなくなった。
 作品には、「コマ運びの展開がいい」「話のテンポがとてもいい」という評価をもらっていた。
「自分でもテンポを良くしたい、と思って描いています。でも、漫画のテンポは速いが、私が描くのは遅い」
 連載を始めたころは、江刺・館山の実家に住んでいた。
「実家に戻ったのは、集中して描こうと考えたから。家賃も浮きますしね」
 連載の締切が迫ると、作業場だけでなく、自宅中が戦場のようになる。アシスタント、さらには岩高アニメ部の同級生を呼び、手伝ってもらったことも。

何度も味わった締切地獄

 漫画の世界では、手が空いている近場の漫画家に応援要請し、アシスタントをしてもらうのが一般的だ。
 かまろさんの場合、県内にアシスタントを頼める人がおらず、隣の秋田県から二人に来てもらったという。館山の自宅に呼び、「何ページをいつまでに」と打ち合わせ、作画を手伝ってもらう。
「漫画家なので腕は確か。私も手伝いに行くことがあり、お互いに助け合いました」
筆が進まないときはもちろん、アイデアが浮かばないときも地獄を見る。ヒイヒイ言いながら、恋愛パターンを絞り出す。
「そういう時期もありました。うまく運ばないときがあるんですよね。一人だと危険(笑)。徹夜を経験したことがありますが、そんなの最後の一日しかもたないですよ。もう一日早く描き始めれば良かった、と反省したことが何度もあります。でも、それができないんです(泣)」
 インターネットがまだ普及していないころ。宅配便では締切に間に合わないと、書き上げた原稿を抱いて、水沢江刺駅から東北新幹線に飛び乗り、東京の小学館へ向かったこともあった。

初の単行本は「シンデレラの条件」

 デビューしてから5年後の2004年、最初のコミックス(単行本)、『シンデレラの条件』が出版された。それまでの読み切り作品を集めた一冊だ。
 このときもかまろさんは書店に行ってみた。
「ほんとにあるわ〜(喜)」
 デビューの時とは、また別の喜びがこみ上げてきた。漫画誌に作品が掲載され、漫画家デビューができたとしても、その全員がコミックスを出版できるわけではない。すぐコミックスが出版される漫画家もいるが、一方で全く刊行されず、漫画界を去る人もいる。

デジタル化に移行

 やがて漫画の世界にもデジタル化の波が押し寄せる。機材を揃える初期投資に何十万円もかかる。
 かまろさんも手書きからパソコンに移行した。環境を変えようと、東京・武蔵小金井のアパートで描いていた30歳頃のことだ。
「『悩殺ロック少年』を描いている間に、私も移行しました。移行するにも勇気がいる。お金もかかるし、慣れるまでが大変。タブレットに描き慣れている人はいいですけれど」
 高価な機材やソフトは、徐々に買い足したという。
「慣れれば、格段に速く描ける、値段の高いスクリーントーンを使わずに済む、アシスタントを頼まなくてもいい、などのメリットがあるんです」

※ベツコミ
 小学館の『少女コミック』の増刊号として、『別冊少女コミック』誌名で1970年に創刊。2002年4月から『ベツコミ(Betsukomi)』に誌名変更した。女子高校生を読者に設定。恋愛や夢をテーマにした内容の作品が多い。


■かまろさんからのメッセージ

 菊地かまろさんは、2018年でデビュー20周年を迎えた。
 漫画家もいろいろ。若くしてデビューする人、社会人になってからデビューする人、子育てが終わってから書き始めた人。
「私は社会人を経験していない。一度就職してもよかったかなと、今になって思いますね」
 菊地かまろさんから、次のようなメッセージをいただきました。

 後悔しないように、やりたいことをやったほうがいい。本当になりたければ、まわりが止めても進んでいく。何かを言われて、やめてしまうようなら、その程度。「デビューが決まるまで、家には戻らない」。私はそう考え、最初は仙台で頑張った。なれたらなれたらで、みんな応援してくれる。だから大丈夫。


 
 ■PROFILE■ きくち かまろ(本名/菊地華乃子)

「かまろ」は、なんとなく付けたペンネーム。アメリカ車の「カマロ」とは関係ない。愛称は「かまろん」。
平成8年3月年岩谷堂高等学校卒業。(普通科第47回)。
同学年に落語家の桂枝太郎(佐々木修市)さんがいる。
仙台デザイン専門学校イラスト科卒業。
奥州市江刺の館山出身。現在は北上市在住。夫と子供2人の4人家族。

初掲載作品「ブギースクール」(1999年)

[コミックス]
シンデレラの条件(2004年)
オオカミたちの天国(2005年)
悩殺ロック少年 全4巻(2006〜20013年)
爆走!! プラチナアイドル(2007年)
悪魔がハレルヤ(2008年)
悩殺ビートで歌わせて(2008年)
東京ロック少年(2009年)
くせものダーリン 全2巻(2012〜2013年)
その男奇っ怪につき(2013年)
モノノケDK(2015年)

※いずれも小学館ベツコミフラワーコミックス

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