自宅で漫画を秘かに描き投稿
小学館発行の少女漫画誌『ベツコミ』に作品を発表し、活躍中の菊地かまろ(本名・華乃子)さん。岩谷堂高等学校ではアニメ部に所属し、漫画やイラストの制作活動をしていた。
「文化祭が近づくと、大きな壁画に絵を描いたり、出品するセル画を描いたりしてました」
アニメ部の友達とは、盛岡や仙台にスクリーントーンなど、漫画制作用の材料や道具を買いに行ったりしていたという。
「道具やペンを買いに行くのも大変でした。当時は値段も高く、高校生にはきつかったですね。インターネット通販がない時代でしたから」
かまろさんが漫画制作に取り組んでいたのは、主に自分の部屋。「親にも内緒で、こそこそと自分の部屋で秘かに描いていました。怪しい少女でした」と当時を振り返り笑う。
かまろさんは三人兄弟の2番目。兄と弟がおり、「ドラゴンボール」「スラムダンク」「らんま1/2」などの少年漫画を読むことが多かったという。少女漫画は、『別冊少女コミック(略称・別コミ)』(小学館)を小学生のころからよく読んでいた。
岩高2年生のとき、「将来は漫画家になりたい」と思い、『別コミ』に初めて投稿した。その作品がいきなり銅賞に入選する。
岩高卒業後は、本格的に絵を学びたいと、仙台デザイン専門学校イラストレーション科に進み、『別コミ』への投稿も続けた。
21歳のときに『別コミ』でデビュー
1999年、専門学校を卒業し、仙台に住んでいた21歳のとき、『別コミ』の担当者から連絡が入る。
「菊地さん、デビューが決まりましたよ!」
初めて掲載が決定した雑誌は、『デラックス別冊少女コミックス・秋の特大号』。掲載作品は、読み切りの学園コメディー「ブギースクール」だった。
この雑誌は、やや小さな誌面(A5判)の隔月刊誌。ページ数は多く分厚つかった。
かまろさんは書店に行って、自分の作品が本当に掲載されているのか確認してしまう。そのときは「心臓ドキドキ」だったそうだ。
「載ってる、載ってる。本当に掲載されている」
一時は漫画家を志すことに反対し、「大丈夫なの? 就職しなくていいの?」と心配していた両親も、初掲載に大喜び。漫画家デビューを親戚中で喜んだ。
初連載は「悩殺ロック少年」
単発の読み切り作品ばかりを描いていたかまろさん。初の連載作品は、2005年から『別冊少女コミック』に連載した「悩殺ロック少年」だった。
一話完結のつもりで描いた作品だったが、大反響を呼んだ。編集部経由で何通ものファンレターがかまろさんに届く。
その文面には、「おもしろかった」「もっと読みたいから続けて描いて」などの感想がつづられていた。間もなく編集部から、「反響が大変良かった。この作品を連載にします」と連絡が入り、急きょ連載が決まった。
「悩殺ロック少年」は、ELLEGARDENという日本のロックグループの曲を聴きながら描いた。
「このロックグループをいくらかモチーフにしました。キャラは全然違いますけどね」
ライブを見て取材したり、写真を撮影し、作画の参考にしたという。
「テンポは速いが、描くのは遅い」
連載開始だと喜んでばかりはいられない。つまり原稿締切が定期的、かつ確実に訪れるということだ。
「続けて描いている漫画家さんって、すごいなと思っていました」。それが他人ごとではなくなった。
作品には、「コマ運びの展開がいい」「話のテンポがとてもいい」という評価をもらっていた。
「自分でもテンポを良くしたい、と思って描いています。でも、漫画のテンポは速いが、私が描くのは遅い」
連載を始めたころは、江刺・館山の実家に住んでいた。
「実家に戻ったのは、集中して描こうと考えたから。家賃も浮きますしね」
連載の締切が迫ると、作業場だけでなく、自宅中が戦場のようになる。アシスタント、さらには岩高アニメ部の同級生を呼び、手伝ってもらったことも。
何度も味わった締切地獄
漫画の世界では、手が空いている近場の漫画家に応援要請し、アシスタントをしてもらうのが一般的だ。
かまろさんの場合、県内にアシスタントを頼める人がおらず、隣の秋田県から二人に来てもらったという。館山の自宅に呼び、「何ページをいつまでに」と打ち合わせ、作画を手伝ってもらう。
「漫画家なので腕は確か。私も手伝いに行くことがあり、お互いに助け合いました」
筆が進まないときはもちろん、アイデアが浮かばないときも地獄を見る。ヒイヒイ言いながら、恋愛パターンを絞り出す。
「そういう時期もありました。うまく運ばないときがあるんですよね。一人だと危険(笑)。徹夜を経験したことがありますが、そんなの最後の一日しかもたないですよ。もう一日早く描き始めれば良かった、と反省したことが何度もあります。でも、それができないんです(泣)」
インターネットがまだ普及していないころ。宅配便では締切に間に合わないと、書き上げた原稿を抱いて、水沢江刺駅から東北新幹線に飛び乗り、東京の小学館へ向かったこともあった。
初の単行本は「シンデレラの条件」
デビューしてから5年後の2004年、最初のコミックス(単行本)、『シンデレラの条件』が出版された。それまでの読み切り作品を集めた一冊だ。
このときもかまろさんは書店に行ってみた。
「ほんとにあるわ〜(喜)」
デビューの時とは、また別の喜びがこみ上げてきた。漫画誌に作品が掲載され、漫画家デビューができたとしても、その全員がコミックスを出版できるわけではない。すぐコミックスが出版される漫画家もいるが、一方で全く刊行されず、漫画界を去る人もいる。
デジタル化に移行
やがて漫画の世界にもデジタル化の波が押し寄せる。機材を揃える初期投資に何十万円もかかる。
かまろさんも手書きからパソコンに移行した。環境を変えようと、東京・武蔵小金井のアパートで描いていた30歳頃のことだ。
「『悩殺ロック少年』を描いている間に、私も移行しました。移行するにも勇気がいる。お金もかかるし、慣れるまでが大変。タブレットに描き慣れている人はいいですけれど」
高価な機材やソフトは、徐々に買い足したという。
「慣れれば、格段に速く描ける、値段の高いスクリーントーンを使わずに済む、アシスタントを頼まなくてもいい、などのメリットがあるんです」
※ベツコミ
小学館の『少女コミック』の増刊号として、『別冊少女コミック』誌名で1970年に創刊。2002年4月から『ベツコミ(Betsukomi)』に誌名変更した。女子高校生を読者に設定。恋愛や夢をテーマにした内容の作品が多い。
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