音楽をメーンに多彩な活動
ERYCAさんは音楽活動をメーンに、ラジオのパーソナリティー、新聞のコラムニストと、多彩な活動を行っている。2007年から日曜日の昼に、奥州エフエム放送で放送中の「SUN DELICA」は、同局の最長寿番組。この番組でERYCAさんは、メーンパーソナリティーを務めている。
音楽活動では、小学校から続けているサックスの演奏とボーカルを披露する。ライブでの愛に満ちたMCも魅力的だ。
サックスの表現力に惹かれて
ピアノは3歳から習った。テナーサックスを始めたのは、岩谷堂小学校の吹奏楽部に入部してからだ。ERYCAさんは4年生のとき、クラスの多数決で吹奏楽部への参加が決まった。
「私がピアノ習っていたことをクラスのみんなが知っていたからでしょう。入部して自分では、どの楽器を演奏したいということはなかったので、『なんでもいいです』と言いました。私は女の子にしては、わりあい手足が大きかったし、背も高かったので、テナーサックスの一番下のキーに指が届いた。それでサックスを演奏することになりました。サックスに子供用サイズなんてないですからね」
ERYCAさんが入部したころ、岩小は吹奏楽コンクールに出場していなかった。だが、指導する佐々木竜哉先生の呼びかけで、岩小が久しぶりに吹奏楽コンクールに参加することになった。サックスにもソロパートがある。ERYCAさんもコンクールに向けて、一生懸命に練習を始めた。
「サックスの音色全般が人の声に近いと思う。子供ながら表現力の幅に惹かれました」
ステージ上でサックスを吹く喜びを感じ、それでこの楽器が好きになったと言う。
中学2年のとき、挫折を経験
中学校2年のとき、大きな挫折を経験した。そのときは真剣に悩み、また、両親にも心配をかけた。
「でも、それを乗り越えたからこそ、悩んだり苦しんだりしている人たちの気持ちも分かる気がするんです。世の中には何万人に一人という難病と戦っている人がいる。でも、自分のエゴの真っただ中にいるときは、私なりに真剣に悩んでいた。その挫折を乗り越えられたのも、その後、認められたのも、結局は両親が好きだから、と大人になって思います」
豊かな家庭環境で育つ
「母は感性の人。美大を志望していたらしい。長年日本舞踊を習っており、若柳流の名取です。その母から私は、かなり影響を受けていると思います。そして父は割烹の料理人。料理人は表現者だと思う。父は包容力がある人、そして情熱の人。子供の頃から地域づくりのために走り回っている姿を見てきました」
その両親から文学や芸術関係の本を際限なく与えてもらい、たくさんの言葉に触れることができたと言う。
「いろんな言葉や人間の歴史にも触れた。行きたい展覧会や美術展に行かせてもらい、作家に会うこともできました」
ERYCAさんが小学生のころ、世はファミコンブーム。でも、父親からは「ファミコンは絶対に買わない」と言われた。「読みたい本なら、何十冊でも買ってやるから」と。
ERYCAさんもゲームするより、美術館に行って絵を見たほうがいい、と考える子供だった。今は豊かな家庭環境の中で、育ててもらったと両親に感謝している。
大好きな美術と文学
好きな画家はたくさんいるが、クリムト、ピカソ、アンリ・ルソーなどが特に好きだという。小説はミハエル・エンデのファン。ファンタジー小説を書く作家で、「果てしない物語」は、映画「ネバーエンディング・ストーリー」の原作となった。
原田マハは日本人の作家だが、ニューヨーク現代美術館の学芸員だったという異色の経歴を持つ。「芸術にまつわる小説が秀逸ですね」とERYCAさんは語る。
岩高吹奏楽部に入部して
岩谷堂小学校、江刺第一中学校と、ERYCAさんは吹奏楽部の部長を経験している。
岩高吹奏楽部に入部したとき、サックスのパートは上級生で埋まっていた。なのでERYCAさんは最初、パーカッションを担当していた。でも、ついに我慢できなくなり、顧問の加藤忠樹先生に、「サックスを演奏できないのなら、私は吹奏楽部をやめます」と直訴。すると、加藤先生から「あと半年待て」と諭された。
3年生が卒業するのを待って、ERYCAさんはサックスのパートに着いた。「今思うと1年のときに演奏したパーカッションが、とても役に立っています」と振り返る。ERYCAさんは岩高吹奏楽部でも、部長を務めた。
タマ・チャールズさんとの出会い
ERYCAさんは高校2年の時から、先輩たちとアマチュアバンドを組み、活動を始める。その練習のため、通うようになったのが胆沢町にあった貸音楽スタジオ「TAMA MUSIC HOUSE」。
そこでスタジオ経営者の「タマ・チャールズ」こと玉山秀之さんと出会う。玉山さんは、ソウル、ブルース、R&Bを演奏するミュージシャン。若いころは音楽コンテスト荒しと称されたほどの実力者だ。
レイ・チャールズのライブ映像を見て、魅了されてからは、レイ・チャールズの歌唱、身のこなし、ルックスをとことん研究。自ら「タマ・チャールズ」を名乗って、全国から声がかかるエンターテナーとして知られていた。
そのタマ・チャールズさんに才能を認められたERYCAさんは、岩高3年のとき、タマ・チャールズ&ヒズバンドに、サックスとボーカル担当として参加した。
岩高卒業後は、東京・恵比寿にあるVANTAN芸術学院のヴォーカル・ソングライティング科で学ぶかたわら、タマ・チャールズさんのバンドでも、引き続き音楽活動を続けた。芸術学院卒業後は、東京と岩手で、さまざまな音楽活動を展開。次第に高い評価を得ていく。
豊かなメッセージを発信
ERYCAさんは、ミュージシャンという範疇に収まりきらない豊かな発信を行っている。
新聞コラムの読者、コミュニティーFMやライブのMCを一度聴いた人なら知る温かな語り口。そこには深い人間愛、自然愛、そして郷土愛が溢れている。
これはERYCAさんの、どのような考え方から生まれてくるものなのだろうか。
「私は一貫してネイティブ・スピリットといいますか、人間それぞれの原点に根付いているであろう知恵や生き方の中に守るべきものがあると信じています。また、それらが忘れ去られようとしている現状に危機感を感じています。誰かが言い続けなくてはならない。それを先輩方には、『んだったよな』と思い出してほしいし、私と同じくらいの年齢だったら、そんなことを爺さん、婆さんから聞いたような気がする、子どもたちだったら、初めて聴くけど、どこか腑に落ちると思ってもらいたい」
ERYCAさんが伝えたいこと
ERYCAさんは「私は住む土地と先人、ひいては日本にゆるぎない誇りを持っています」と言い切り、「今後、地域の文化を底上げしていきたい」と語る。
「人間としての根本を忘れないように、引き継いでいきたいという気持ちがある。世の中には情報が溢れている。技術も向上している。たとえば、若手ミュージシャンの演奏技術は凄いものがあります。でも、人間力が先輩とは違う。みんな知識は豊富なんです。昔の人が生み出して、今も役立っているものは、知識でなくて知恵なんです。知恵は知ったから知恵になるのではなくて、自分の中で咀嚼して、栄養にして、自分の中に腑に落ちて根付く。それを誰かのために使って、初めて知恵だと思うんです。その循環ができあがれば、今、崩れていることも元に戻っていくと思います」
文明社会と人間のネイティブ・スピリットは必ず共存できる。知識過多でなく、どれだけ知恵にしていけるか。そこに人間の未来がかかっていると話す。
「私は、出会った人達の幸せを願っています。人生は辛い日もあるが、根本に立ち帰ったときに、自分は幸せだと思える人たちで溢れていれば争いもなくなるし、天災に遭ったときも乗り越えれると思う。そんなことを、いろんなかたちで発信していけたらと思っています」
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