タレント・ディレクター
高野真一郎
高野真一郎1

高野真一郎さん

高野真一郎2

「いいコト!」で活躍する
高野真一郎さん

高野真一郎3
高野真一郎4


高野真一郎さんから
若いみなさんへ
次のようなメッセージを
いただきました。

今の若者は良くも悪くもおとなしい。
もう少し自己主張した方がいいと言いたい。
自分の信じた道を探して答えが出るか、出ないかなんて分からないが、主張をしないと、君がここにいることが分からない。
電波を自分から発信すればこそ、いろんな人と出会い、繋がりが生まれる。
いろいろなものを吸収すれば、自分の引き出しに深みができる。
人として成長できる。
独りよがりでない自己主張が、もっと必要だと思う。
それぞれいろいろ感じ方があって、面白く楽しくなる。
自己主張をもっとしろと言いたい。


親子で岩高バレー部!

 テレビやステージで大活躍の高野真一郎さん。父親は高校の保健体育教師だった。
 岩高の1年生も終わろうという3月のある朝、岩手日報を見ると、教員の異動が掲載されていた。そこに父親の名前を見つけた。黒北から岩高に異動とある。「まさか」。父親に確認した。「せめてバレーボール部の顧問にはならないでくれ」と念を押したところ、「顧問の希望は野球部で出した」とのこと。
 安心していたが、新年度、体育館で行われた新任教員の紹介で、「高野先生にはバレー部の顧問をお願いしています」と教頭。真一郎さんの頭の中は真っ白に。「ふざけんな。やめでけろー」と叫んだ。
 家に帰るなり、父親から「学校で俺は先生、おまえは生徒。公私混同はナシだぞ」と言われた。その通りだと思っていた。が、ある日の練習で、真一郎さんがアタックをミスすると、ベンチから「今夜、晩飯抜きだぞー」と言う声。親子の奇妙な部活動は、3年の夏まで続いた。

最初で最後の大反抗

 祖父が福祉の仕事に携わっており、自分自身も作業療法士や医学療法士に興味があった。そのため、岩高でのカリキュラムは福祉系をとっていた。
 高校3年の3学期。進路を決める直前になり、「俺は本当に福祉を仕事にしたいのか?」という気持ちが湧き、抑えられなくなった。
「本当にやりたいことは、しゃべる仕事なんじゃないのか」
 意を決した真一郎さんは、その気持ちを両親に打ち明けた。案の定、大反対が待ち受けていた。
「そんな仕事で食えるのは、ほんの一握りだ。安定した仕事にしろ!」
 このとき、真一郎さんは最初で最後、一世一代の大反抗をする。
「俺の人生の行き先を決めるのは、あんたらなんだな。俺じゃないんだなっ!」

憧れは「パーソナリティー」

 真一郎さんが岩高生のころ、夜11時からエフエム岩手で、「ラジアンリミテッド」(エフエム東京制作)という番組が放送されていた。この番組のパーソナリティーは現在、「ラジオ界の神」と呼ばれている、やまだひさし(山田尚)さんだった。
 番組では、やまださんがいろいろなことをどう感じたか、のべつ幕なし、好き勝手に話す。リスナーは、そのメッセージにリアクションをするという内容だ。
 ラジオは一方通行のメディアだと思っていたが、やまださんは自然体でリスナーとキャッチボールしていた。いつしか話に引き込まれ、魅力を感じている自分がいた。
 真一郎さんはバレーボール部の傍ら、パンクロックバンド「ブルーハーツ」のコピーバンドをつくり、演奏活動を行っていた。ライブでは曲の合間にMCをした。聴衆は身内がほとんどだったが、自分のしゃべりに対するさまざまな反応が気持ちよかった。
 高校に入ってからのこれらの経験。それが真一郎さんの気持ちを、強くラジオ・パーソナリティー志望に駆り立てた理由だった。
 父親は「進路を変えたい」と言う真一郎さんに対し、最初反対を唱えたが、一方で、進みたい道を懸命に訴える真一郎さんの姿を見て、少し嬉しかったのだという。

「声優・タレントコース」に入学

 真一郎さんは、すったもんだの末、日本ビジネススクール仙台校に新設されたばかりの「声優・タレントコース」に進むことになる。
 声優・タレントコースでは、発声やしゃべりの勉強、演技指導など表現力を育てるためのさまざまなカリキュラムが組まれていた。
 その中に「演技基礎」という科目があった。仙台の劇団「リタラリー・ギルド・シアター」の座長が講師となり、しゃべりを通して表現力を養った。まもなく座長から「うちの劇団に来ないか」と誘いが来る。

テレビユー山形でリポーターに

 真一郎さんは専門学校在学中に劇団に入り、舞台や芝居に参加した。専門学校の後輩である奥さんとは、劇団でも活動をともにし、その後結婚する。
専門学校を卒業した真一郎さんが、初めてテレビに登場したのは、テレビユー山形(TBS系)の土曜日に放送されていた生のバラエティー番組。リポーターでの採用だった。
 劇団の座長が、番組の企画にふさわしい人材を探していたテレビ局へ紹介した。真一郎さんが在学中から何に対しても積極的に取り組み、人との繋がりを大切にしてきた結果と言えるだろう。テレビユー山形でのリポーター業は、5年ほど続いた。

間違って応募して……

 エフエム仙台(愛称Date fm)が新番組を始めることになり、改変の一年前、一般からパーソナリティーを募集することを知った。
 真一郎さんは意気込んで、履歴書とデモテープを送った。ところが、その募集は女性を対象にしたものであり、要項をよく読まなかった真一郎さんは、誤って応募をしていた。
 まもなくエフエム仙台のスタッフから電話があり、「女性パーソナリティーの募集であり、申し訳ないが今回は選考せず、却下とさせていただきます」と言われた。真一郎さんは「そうだったのか。仕方がない」と諦めた。
その一年後のことだ。突然、エフエム仙台の男性局員から、「高野さんと会いたい」と連絡が入る。何事かと思いながら放送局に行くと、「前回の募集は一年間限定の仕事だった。来年度、新しい番組を始めるが、君をパーソナリティ候補に挙げていいですか?」と言われた。

FM仙台の新番組に抜擢

「まじすか!」
 前回の応募書類は、自分が間違って送ってしまったもの。「それなのにいいの?」と驚いた。「局内で、君は声がいい。キャラクターが立っている、という意見があるんだ。候補に推薦してもいいかな?」
「ぜひ、お願いします」と頭を下げたが、やはりオーディションが設けられていた。面接には5人ほど候補者がやってきた。自己紹介と曲紹介をさせられた。他の候補者も粒だっており、高野さんは「おれの芽はないな」と思った。しかし、局内では「高野君は面白い」と評価が高く、真一郎さんは新しい生番組「ブロッキン・ハーモニクス」のパーソナリティーに抜擢された。
 思いがけない展開の末、ついに憧れていたパーソナリティーの仕事にたどりついた。
 アピールを続けていた真一郎さんの熱意が、エフエム仙台に届いたのだ。
「たとえばジャニーズ事務所やホリプロに所属していれば、黙っていても声がかかるかもしれない。タレント志望者は仙台にも腐るほどいました。自分自身で、ここにいるよ、とアピールしないと何の仕事も来ないと思いましたね」

生放送「ブロッキン・ハーモニクス」

「ブロッキン・ハーモニクス」は、毎週月曜と火曜の夜7時から放送された。流行している曲や、これからリリースされる曲をピックアップしてオンエアする。
 毎週ではなかったが、キャンペーンでスタジオにゲストが訪れることがあった。新人が多かったが、ときには大御所や人気者も。斉藤和義、藤井フミヤ、May.J……。
 岩高時代から大好きだった「ブルーハーツ」の甲本ヒロトさんと真島昌利さんが、スタジオにやってきたことがある。そのときの真一郎さんの心境は、役得どろころではなかった。
(憧れの存在だった二人が、同じブースの、目の前にいる。アワワ)
 冷や汗が滴り、まともにしゃべれない……。そんな嬉しすぎる出来事もあった

IATの生番組「いいコト!」に抜擢

 東日本大震災があった2011年。当時はまだ仙台に住んでいた。
 現在、メーンリポーターとして活躍している岩手朝日テレビ(IAT)の「いいコト!」は、震災があった年、2011年10月に放送が始まった。番組開始の半年後、前任のリポーターが急な事情で外れることに。そのリポーターが真一郎さんを推薦し、白羽の矢が立った。
 真一郎さんは県内出身で、岩手の土地勘があることも評価された。地方の民放テレビ局のアナウンサーは、案外地元出身者が少ない。現在の「いいコト!」でも、メーンMCの相埜裕樹さんは大阪出身。他のメンバーも名古屋や佐賀県出身である。アナウンサー募集には全国から応募があり、その中から優秀な人材を採用するからだ。
 真一郎さんは土地勘があるとともに、テレビユー山形でリポーター経験があること、今回は男であることも有利に働いた。

アフロヘアに割烹着!

 アフロヘアに割烹着という扮装で登場するようになったのは、出演し始めて半年後、平成12年の秋だった。
 それまではノーマルな格好でリポーターをしていたが、ディレクターから「どうにも、つまらない」と言われ、スタッフと真一郎さんの話し合いの末、あのような「いろもの」のコスプレを考えだした。
最初のころ、スーパーや大型店、土日ジャンボ市などでのロケが多く、主婦層向けの中継が多かったことも提案の背景にあった。浪速の「おかん」になったら、面白いのではなかと考えたのだ。
 局内では、「アフロを被る必要があるのか」「コスプレは必要か」と懸念する声もあった。だが、初めてアフロヘアを被って放送した直後の反響に、予想以上のものがあり、「おかん」の扮装を続けることになった。

リポーターが果たす役割

 今では「いいコト!」の代名詞的キャラクターとなった真一郎さん。 いつしか、この扮装が強みとなった。
「番組も7年目となり、市民権を得たような気がします。自分の売りは何かと考えると、人柄と人当たりの良さくらいだと思う。たとえば、地元の人たちが話す方言を聞き、それに標準語で答えていては、話した人の素が出てこない。僕は方言でやりとりできる」
 岩手県は、民放だけでも四つのテレビ局がある。チャンネルを選ぶ指をIATの「5」で止めてもらえるか。真一郎さんは、その方策を日夜考えている。
「あくまでもリポーターはきっかけづくりだと思っています。メーンは商品であり、イベントです。それを視聴者に伝えるのがリポーターの役目。自分が主役になってはダメ。現場の空気を変えるのも、アンカーとして伝えるのもリポーターの役目であり、自分の立ち位置はメーンじゃない。今の僕の立ち位置は、岩手の人たちに居心地がいい感じに見えるらしい。僕はいつも〈きっかけをつくるためにいる〉というスタンスで仕事をしています」

IATとディレクター業務契約

 真一郎さんは現在、リポーターの仕事だけでなく、IATとディレクター業務契約を交わし、多くの番組制作に関わっている。
 仙台でアルバイト的に仕事をしていた時代、取材先とアポイントをとり、自分でカメラ撮影、ナレーションも入れて編集するという仕事を依頼された時期があった。当時は一人で二役も三役もこなすことは大変、と思いながらしていたが、その経験が役に立った。
 従来のテレビ取材では、カメラ、音声、ディレクター、リポーターと、少なくても四人が必要だ。これがリポーター経験豊富な真一郎さんの場合、カメラマンと二人で可能なのだ。テレビ局側としては、企画とコストの両面でメリットがある。
「いいコト!」を始めたころは仙台に住んでいた。IATの仕事が大幅に増え、盛岡への通いが増えると、IATから「盛岡に住んで、もっとIATの仕事をしませんか」と提案される。真一郎さんの奥さんは、沿岸の山田町出身。二人ともふるさとは岩手県だ。真一郎さんは、この提案を受け入れ、IATと業務委託契約を結び、さらに番組づくりに参加することになった。リポーターとディレクターの二足のわらじを履くことになったのだ。
「いいコト!」の放送は土曜日だが、平日は番組コーナーのディレクター業務にあたる。短いパブリシティー制作の場合、自分で原稿を書き、自分で出演し、ナレーションを入れて編集することも。おなじみの「CM大賞」や高校野球中継のフロアディレクターなどでも活躍している。
真一郎さんは、十分な取材と準備を行い、内容を充実させることに意を注いでいる。
「先方から、どういう情報かを事前に聞きとり、その内容を調べて台本に落とし込む。それをリポーターに確実に伝えています」
 十分な取材と準備を行えば、番組本番での言葉の密度と熱量が全く違うという。


 ■PROFILE■ たかの しんいちろう

岩谷堂高等学校総合学科 平成13年3月卒業。
江刺市愛宕出身。盛岡市在住。
昭和57年10月1日、戌年の天秤座生まれ。
奥さんは山田町生まれ。現在、長男は7歳、次男は3歳。3月に3人目長女誕生。
IAT 岩手朝日テレビ「いいコト!」
毎週土曜日 朝9時30分から放送中
http://www.iat.co.jp/blog/ekot/

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