小学2年生でピアノを習い始め、5年生のとき吹奏楽を始める
岩谷堂小学校が館山にあった時代から、学校下の六日町に音楽教室がある。そこで柴田誠太郎さんは、小学2年生のときからピアノを習っていた。理由は「ケーキを食べたかった」から。その音楽教室ではレッスンの合間や誕生日にケーキを食べさせてくれるという噂を聞いていた。しかし、実際に音楽教室に行くと、そんなことはなかった。
岩谷堂小学校では5年生から吹奏学部に入り、「チューバ」と「アルトホルン」を担当。コンクールにも参加した。
作曲家を目指すきっかけは、《ごちゃまぜ》にピンッ!
江刺第一中学校に入学、入部したのはテニス部。音楽は自宅でクラシックのCDや演奏会のビデオを鑑賞して楽しんでいた。
作曲家を目指すきっかけ。それは丁度このころにテレビで放送されていた「ニューイヤー・コンサート」や、ヨーロッパで開催された演奏会のビデオを自宅で見たことだった。
そのとき、今でも敬愛している作曲家「ヨハン・シュトラウス二世」…の弟である「ヨーゼフ・シュトラウス」の作品《ごちゃまぜ》を聴いて「ピンッ!」と感じた。
「確かに“ごちゃまぜ”の様子を思わせる音楽だ。作曲って、そんなに難しくないかもしれない」と思った。
音楽を聴きながら、「この曲はどう作られているのだろう」と考えるようになっていた。当時、誠太郎さんはクラシック音楽の楽譜が販売されていることを知らなかった。そのため、自分の耳で聴き取って楽譜を再現していたという。
「メロディはなんとかなるかも…」
一方で、曲として成り立つためには何か「法則」があるに違いないと思い、モーツァルトらの曲を聴き、「右手がこう弾いているときは、左手の音はこうかな?」と自分なりに「法則」を探した。
後に岩手大学に入学して、「和声」を学んだとき、この「法則探しの結果」が概ね合っていたことを確認した。
座右の銘
音楽の授業で、世界的指揮者「小澤征爾」が指揮した「2002年ニューイヤーコンサート」のビデオを鑑賞した。興味を抱いた誠太郎さんは、このビデオテープを借りた。
このころがクラシック音楽に興味が湧き、のめり込み始めた時期。CDやビデオを買ってもらうようになった。また、それらで見ることができた「チェロ」を「かっこいいなぁ」と思い、特に「ウィーンフィル」のチェロ奏者「ヴォルフガング・ヘルツァー」に憧れたという。
ピアノをもっていなかった誠太郎さんは、昼休みになると音楽室に行き、ピアノを弾いていた。
「学校の勉強」には、あまり熱心に取り組んでいなかったが、小澤征爾のある言葉を知って衝撃を受け、勉強に向き合うようになった。
「勉強が何よりの楽しみでないなら、音楽の前に立つな」
これが誠太郎さんの「座右の銘」となった。
クラシック音楽のビデオを借りて見ては、その曲をピアノで真似て弾いていた。
「ピアノ作品よりもオーケストラ作品が好き。ブラームスの《ハンガリー舞曲》は強い親しみを持ちました。」
吹奏楽部に入部した岩高時代のエピソード
高校に入学したら吹奏楽部に入ろうと考えていた誠太郎さん。このころはまだ「作曲」に特別な思い入れはなかったという。
2006年、岩谷堂高校総合学科の12回生として入学。予定通り吹奏楽部に入部し、「ホルン」を担当する。興味を持っていた「チェロ」と共通する部分があり、また、自分の性格に合う楽器だと思った。
岩高時代、こんなエピソードがある。
毎朝音楽室に行きピアノを弾いていた。ある日、ふと時計を見ると8時30分を大きく過ぎていた。
「しまった。小テストの時間が過ぎている。万事休すか」
音楽室からピアノの音が聞こえている。だから誠太郎さんが音楽室にいるのは、みんな分かっていたはず。しかし、誰も呼びに来なかったという。
「音楽が好きなんだからいいんじゃない、という感じだったんだろうと思います」
1日10時間ピアノを猛練習
岩手大学教育学部芸術文化課程音楽科に合格
誠太郎さんが受験したのは、岩手大学教育学部芸術文化課程音楽科。推薦入試での合格を目指したが、これは不合格となった。そのため、センター試験を受けたうえで、再び岩手大学の入学試験に挑んだ。
音楽科の二次試験科目は実技だけだった。
特に合格に必要な条件はピアノ演奏の上達。誠太郎さんは教頭先生に直談判した。
「僕、明日から学校に来ません。ピアノの練習をします」と言ったら、「良いよ」と言われた。それが「ターニングポイント」だったに違いない。
二次試験までの1カ月間、毎日、名教師である鈴木美樹子先生のもとへ通い、朝9時から夜9時まで1日10時間以上ピアノの猛練習をした。試験本番にはベートーヴェンとツェルニーの作品を弾き、合格を勝ち取った。
「岩高には放牧してもらった。自由な時間をもらった」と語る誠太郎さん。「もし違う高校に入学していたら、こうはいかなかったと思います」と振り返る。
岩手大学管弦楽団でチェロを演奏
岩手大学で得たもの
誠太郎さんが岩手大学を志望した理由。それは地元の国立大学だから、ということではなかった。岩高での3年間、毎年夏にオープンキャンパスで岩手大学を訪ねたとき、「作曲」の授業を担当していた山本裕之先生に出会い、岩手大学を志望校としたのだった。
ところが、誠太郎さんが岩手大学に入学すると、その山本先生がいない。入れ違いで愛知県立芸術大学に転勤していたのだ。これはショックな出来事であったが、それでも岩手大学には、多くの魅力があったという。
目を輝かせた。岩手大学には管弦楽団があり、すぐに入団。ついに「チェロ」を演奏することとなる。卒業後も続け、合計6年間「チェロ」を演奏した。また、「チェロ」の他にも、いつか研究してみたいと思っていた楽器がずらりと揃っていた。さらに、大学図書館には音楽に関係する蔵書が数多くあり、研究心をますますかき立てられた。
大学生活中は毎週水曜日を「図書館の日」と決めていた。この日は「管弦楽法」という楽器の使い方について書かれた本や、作曲家をはじめ、数多くの音楽家の伝記などを読む時間に充てていた。
入学時に山本先生がいなくなってしまったため、結局、誠太郎さんはピアノを専攻した。しかし、2年生の時に「作曲教員」として新しく着任した山口哲人先生の下で、ピアノ専攻の「レッスン」とは別に「作曲」を師事し、卒業まで多くのことを学んだ。
「岩手大学では、個性的な先生方から厳しくも楽しいご指導をいただきました。作曲した作品の演奏や、力をかしてくれた友人たちとの関係も含め恵まれていました」と誠太郎さんは話す。
勉強の日々純粋な言葉との出会い
愛知県立芸術大学大学院への進学
岩手大学を卒業し音楽会社に勤務した後、県内の大学で2年間特別講師を務めた。並行して、3年間、仙台市に在住する作曲家、宮城純一先生のもとへ通い続け、「作曲」の腕を磨いた。毎日膨大な量を勉強した。このとき学んだことも、後に愛知県立芸術大学の大学院へ進学するときの重要な糧となった。
2013年、再び衝撃を受ける言葉に出会う。日本作曲家協議会会長、東京藝術大学副学長などを歴任した松下功先生の言葉だ。
「作曲家とは、心に描いたことを正直に音で表す人のことである」
当たり前のことにも思えるこの言葉が胸に深く刺さった。当時、切磋琢磨する相手を首都圏の作曲家やコンクール、演奏会に求めていた。そうしているうちに「自分の音楽」を作るべきところが、「首都圏の仲間入り」にばかり注目して、音楽を作るようになってしまっていた。
この現状に誠太郎さんは疲れを感じていた。そのため、松下先生の真っ直ぐで「純粋な言葉」に目が覚めるような思いがした。
自分を見つめ直し完成させた作品は、翌年、誠太郎さんを大きく飛躍させる結果へと繋がる。
「先にはまさしく松下先生がいて、声を上げてその作品を喜んでくれました。韓国の作曲家であるリョーさんをはじめ、新しい友人と出会うこともできました。かけがえのない瞬間でした。」
2016年には、日本作曲家協議会の会員による演奏会「東北の作曲家」に、岩手県出身者として初めて出演した。
「宮城先生と一緒に作品が演奏されたときは、とても嬉しかった。」
以降、毎年作品が演奏されている。
また、「20代のうちに」と、かつて岩手大学に在職していた山本教授が教える愛知県立芸術大学の大学院に進学し、「作曲」を専攻。山本先生の下で研究と発表活動を続け、大学院を修了する。
誠太郎さんの作品は、フランス、イタリアのほか、国内の主要なホールで演奏された。国際的な作曲コンクールでも、すでに多くの受賞・入選を果たしている。身近なところでは、統合した一関市立千厩小学校の校歌を「作曲」している。
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