「岩高賛歌」と「スペードのマンボ」の作曲者
本庄和也さんは、岩高吹奏楽部のOBであり、校歌とともに岩高生に親しまれている「岩高賛歌」の作曲者である。
本庄さんが岩高から「岩高賛歌」の作曲を依頼されたのは、河合楽器に就職し、郡山に赴任していたとき。21歳と若かった本庄さんは、「何で俺が作曲することになったのだろう」と驚いたという。岩高から送られてきた封書には、平野賢治先生が作詞した漢文調の格調高い歌詞が入っていた。
岩高吹奏楽部OBが定期演奏会の度に演奏する曲に「スペードのマンボ」がある。実はこの曲も本庄さんの作品。
「トランペットの名手だった一年後輩の菊地憲一君にソロ演奏をしてもらおうと、三年生のときに作った曲なんです」
学校側が本庄さんに白羽の矢をたてたのは、もちろんこの実績を知っていてのことであった。この当時、岩高には逍遥歌はあったが凱歌に類する歌がなく、「哀愁あふれるメロディーの『讃える歌』をつくってほしい」というのが学校側の希望であった。
それからというもの、この難しい要望に応えようと、本庄さんは毎日真剣に作曲に取り組んだ。作曲の構想の中で、短調のメロディーラインを途中で長調に転調させ、また短調に戻す曲づくりに三カ月かかった。譜面をつくり、さらにブラスバンド用の楽譜をつくると、楽譜はかなりの枚数となった。
「岩高賛歌」は、昭和43年(1968)5月17日に行われた創立50周年式典の折り、吹奏楽部の演奏による在校生全員の合唱によって初めて披露された。式典に招待され、「岩高賛歌」の大合唱を目の当たりにした本庄さんは、その迫力と栄誉にかつてない感動を覚えたという。
有名演奏家が弾くピアノも調律
岩高卒業をひかえた本庄さんは「何か音楽に関係ある仕事をしたい」と考えていた。そこで先生に相談すると、「調律師」という職業があることを教えられる。調律師とは、楽器、特にピアノなど鍵盤楽器の音を基準音に合わせて調整する専門職であった。
だが、当時「調律師」は一般の人には全く馴染みがなく、両親には強く反対された。しかし、本庄さんはその反対を振り切って、浜松市にある河合楽器が運営するピアノ調律師養成所を受験。数倍の倍率を突破して合格を果たす。
本庄さんは現在、県内のホールや一般家庭のピアノ、そしてピアノレスナー宅の調律を行うとともに、カワイ盛岡ショップの責任者をしている。ホールの仕事では、国内外の有名アーティストが弾くピアノの調律を行うこともあるという。
本庄さんは、人生と職業について次のように話す。
「毎日楽しく生きることが一番いいんじゃないかな。私も今の仕事を楽しいと思ってやっています」
「岩高賛歌」と「スペードのマンボ」という名曲を産み出した本庄和也さんは、自らの人生をその才能と勇気で切り拓き、思う存分楽しんでいる人であった。
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