社説にあたる「論説」と「風土計」を執筆
新聞には必ず自社の意見や主張を発表する社説欄というものがある。社説欄は、新聞社が紙面づくりの中で、「社会の公器」としての使命を果たす一番大切な場所である。岩手日報の場合、社説のことを「論説」と言っている。
社説は新聞社の主張であるが、読者に対して責任を持つ意味から、岩手日報は論説委員の署名入りで掲載している。客観的事実に基づいて、県民を正しい方向へと導く「論説」は、岩手日報の紙面の中で、最も重要な役割を担っている。
菊池さんは、この「論説」を週に一、二本書いている。テーマは、県政や国政、選挙、事件、事故などが多い。
論説を執筆するときの姿勢を菊池さんは次のように話す。
「常に正義感を持ち、社会現象に対して疑問を持って、何が正しくて、何が正しくないのかを見極めて書く。目線を下げ、一般庶民の立場になって書くことが大切だと思っています」。
「論説」のほかに菊池さんは、一面下段のコラム「風土計」の執筆も行っている。
岩高時代が記者を志すきっかけに
岩高に在学していたときの二つのことが、菊池さんが新聞記者を志すきっかけとなった。
「当時、岩高で英語と社会を教え、後に岩高の校長(第14代)となった志智順幸先生の影響があったと思います。志智先生からは、ものの見方を教えられました。また、岩高新聞の部員になり、その活動を通じて、書くことの喜びを知ったことも、新聞記者を志す動機になりました」。
大学4年の就職試験では、岩手日報社と県内にある企業の二社に合格した。昔、新聞記者が低い地位の職業だったこともあって、親には岩手日報への就職を反対された。だが、その反対を押し切って、菊池さんは新聞記者の道を選ぶ。
鈴木善幸首相の担当記者を経験
最初の配属は、本社の編集局報道部。学校回りや県庁の土木関係部署を取材して歩いた。五年ほどしてから本社を離れ、北上支局長となる。
昭和55年(1980)7月、鈴木内閣が突然成立した。県出身の総理出現に、日報社では東京支社の強化を打ち出す。
菊池さんに東京支社勤務の辞令がおりた。菊池さんは、総理官邸に詰めて、鈴木首相を取材するという大役を任される。鈴木首相の行くところ、どこにでもついて行った。首相の一挙手一投足から話題を拾う。訪米に同行し、ホワイトハウスでも取材を行った。当時、アメリカはレーガン大統領の時代であった。菊池さんが社会部系から政経畑へ移ったのは、この経験を積んでからである。
高校生として社会の現象を読みとれ
新聞記者のやりがいについて、菊池さんはこう話す。
「新聞社の間には報道競争というものがあります。朝日・毎日・読売などの中央紙に掲載されて、岩手日報に書かれてないとなれば一大事。抜かれた、ということになるんです。大変なことは大変だが、それが励みにもなる。特ダネを書いたときは記者冥利に尽き、充実した気持ちになりますね」
ジャーナリストを目指す人へは、「自分の中にある社会正義、つまり自分自身の倫理観と正義感を社会に向かって発することができる仕事です。普段から社会の現象をしっかりととらえ、常に疑問を持つように心がけてほしい」と助言する。
岩高生には、次のようなメッセージをいただいた。
「今、世の中には、さまざまな情報が氾濫していますが、いい情報を身体全体で吸収し、自分なりの生き方を探してほしい。高校生として、社会の現象を読みとることが大切です」
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