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及川芳夫さん(記者時代)
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及川さんの志を継いで出版された書籍 |
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新聞記者への道まっしぐら
岩谷堂中学校の新聞部で活躍していた及川芳夫さんは、岩高に入っても、「俺は将来、新聞記者になるんだ」と宣言し、またも新聞部に入部する。さらに当時県下のトップクラスにいた羽球部にも入り、中堅選手として頑張った。芳夫さんは、昭和32年春、国立の宇都宮大学に合格した。その頃、江刺はまだまだ貧しく、大学に入れるのは学力に優れ、しかも裕福な家の子供に限られていた時代。男七人、女三人兄弟の末っ子であった芳夫さんが、経済的に恵まれていたはずがない。進学は、芳夫さんの強い決意と家族の理解があってこそ拓けた道であった。宇都宮大学でも新聞部に入部。記者に必要な感性と文章力にいっそう磨きをかけたと思われる。芳夫さんは、昭和三六年春、卒業と同時に栃木新聞社に入社した。芳夫さんが編集した大学新聞の出来映えが高く評価され、請われての入社であった。
しかし、芳夫さんはその三年後、栃木新聞社を退社し、読売新聞社に入社する。
腎臓の病、そして奨学資金の寄付
読売新聞横手通信部勤務のあと、芳夫さんは東京本社配属となり、各部局で活躍した。しかし、このときの頑張り過ぎが、後に健康を損なう原因となる。芳夫さんは、「新聞記者は不規則な商売で、迷惑をかけるだけだ」と言って結婚をしなかった。ただでさえ時間が不規則な仕事なのに、そのせいで食生活までが偏った。芳夫さんは腎臓を患い始めていた。本社勤務のあと、芳夫さんは再び秋田に戻り、秋田支局勤務となる。公正な情報分析、深い洞察力、優れた表現力――。芳夫さんが書いた記事は全国版にもたびたび掲載され、社内の賞を何度も受賞している。
東北地方が大冷害に見まわれた平成5年、芳夫さんは岩高に「進学が困難になった生徒の奨学資金として使ってほしい」と、100万円を寄付した。「私が大学に進む頃も大変で、いろいろとみんなに助けられた。農業に依存する江刺だから、今度の冷害で困っている後輩もいると思う。一人でも多くの後輩が自分の希望する道に進んでもらえれば」という思いからであった。このお金は岩高の同窓会が管理することになり、有効に活用された。
芳夫さんからは平成8年にも、遺族によって岩高図書館へ100万円が寄付されている。
「小牧正英と宮沢賢治を書きたい」
平成6年の5月下旬、芳夫さんは「江刺にある宮沢賢治の石碑をみたい」と帰郷する。車で案内をしたのは、岩高の同級生、門脇生男さんと及川茂さんであった。田原の原体にある原体剣舞の碑を見に行った。「いいところに、いいものがあるなあ」と芳夫さんがつぶやいた。このあと、阿原山にできたばかりの賢治歌碑も見に行く。芳夫さんは「私は宮沢賢治が大好きだ。いつか宮沢賢治と江刺について詳しく調べてみたい。でも、今は同じ銭町出身の小牧正英さんのことをまとめているよ」と、意欲的な話しぶりだった。小牧正英氏は小牧バレエ団の創始者。芳夫さんの言葉通り、芳夫さんと同じ銭町(旧銭鋳町)の出身である。戦後、日本のバレエ界を再生させ、バレエ史にその名を刻んだ。
元気そうに見えたこの日の芳夫さんであったが、この頃、週三回の人工透析を必要としていた。
芳夫さんの遺志
平成7年12月11日、急に病状が悪化した芳夫さんは、秋田市内の病院で帰らぬ人となった。中学の頃に設定した目標に向かって、真っ直ぐに走った57年の人生であった。葬儀は16日に男石の興性寺で営まれた。この日、門脇生男さんは、こみ上げる涙と嗚咽を必死にこらえながら、同級生代表として、次のような弔辞を読んだ(抜粋)。
「57歳にして、この世を去った芳夫君には、やり残したことが沢山あったと思います。とても残念でなりません。しかし、私はその反面、自分の志を貫徹した芳夫君の人生に、ある種のさわやかさを感じているのです」
小牧正英氏の伝記については、芳夫さんが集めた資料と志を引き継いだ東京在住のライター、山川三太氏の手によって単行本にまとめられ、芳夫さんが亡くなる二カ月前の平成7年10月に、『「白鳥の湖」伝説―小牧正英とバレエの時代―』として、秋田の無明舎出版から刊行された。小牧正英氏の半生と日本バレエ史を、綿密な取材によって描いた感動のノンフィクションである。
秋田や東京を中心に活躍していながら、芳夫さんは「岩手がいい、江刺が一番いい」といつも話していた。ふるさと江刺のために、芳夫さんの知識と才能が発揮される矢先の、惜しんでも惜しみきれない死であった。
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■PROFILE■ おいかわ よしお |
昭和32年3月岩谷堂高等学校卒業(普通科第8回)
昭和13年生まれ。江刺市銭町出身。
宇都宮大学農学部卒。
昭和50年頃から毎年のように、芳夫さんは江刺市立図書館に献本していた。
芳夫さんの没後には、遺族により芳夫さんの蔵書のほとんどが江刺市立図書館に寄贈された。
その合計は、偶然にも2,000冊ちょうどであった。
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【取材協力】
門脇生男さん 江刺市玉里在住
「芳夫さんは、真面目でいつもファイトいっぱいの人でした。茶目っ気もあり、人にとけ込むのがうまかったですね」
昭和40年頃、読売新聞横手通信部にいた芳夫さんから、「近いから遊びに来いよ」と呼ばれ、横手に訪ねて行った。
「久しぶりに再会した芳夫君は、眩しいほどに輝いていました。中学時代からの夢が実現し、正義感と使命感に溢れ、自信に満ちていました」このときの芳夫さんの目の輝きが、その後の門脇さんの生き方にもプラスになったという。
現在、門脇さんは(株)北日本油設の役員をする傍ら、江刺ボランティア協議会の会長を務める。目の不自由な人に貸し出す「声の広報」の録音活動など、数々の福祉ボランティア活動のリーダーとして活躍している。 |
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