窟堂は慶應2年(1866)、及川幸太郎直利・キセの二男として中町に生れ、南画(南宋画ともいう。中国二大流派のひとつ、絵は気韻を尚び多く胸中の山水を描くことを目的としている。水墨画、淡彩画によって、柔軟な表現で主観的写実を特色とする。作家には文人・学者が多く、わが国には江戸中期から入り、文人画ともよばれている―広辞苑より)をよく描き、書にもその才能を表わしている。 医者の二男であったから、父は医者にしたかったようだったが、窟堂は、絵・書に自らの才能を感じ、その道に入ったのである。(ちなみに雅号の窟は岩屋の意味で、堂と合わせて「岩谷堂」を表した)。生前の豪鳳の言によれば、身近に特定の師とてなく、諸方から訪れる文人墨客と交流を持ち、そうした人々やもたらされる資料から多くを学んだようで、ほとんど独学に近かったようであるが、残された遺品から、乏しい資料に食らいつくようにして、孤独な努力を続けたであろうことが偲ばれる。 しかし当時としてはこれでもって生計を維持することは難しく、本家の近くに土地をもらい、家を建て家紋業を営みながら、絵や書の制作を続けた。ただ、残念なことは窟堂の作品は豪鳳(窟堂の長男)のそれに比べて数が少ないことである。これは、窟堂が大正5年(1916)に50年の生涯を終えたのであるから、豪鳳に比べて25年もその生涯が短かったためとも思われる。 (えさしルネッサンス館展小冊子に一部加筆) |
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