■トゥールズ=ロートレック■ポスター<アンバサドゥール>1892年/明治25年(パリ)部分
第3回ギャラリー[亀の子館]
特別展

期間 平成11年2月1日(月)より
会場 えさし亀の子本舗 八重吉煎餅店●2Fギャラリー亀の子館/江刺市中町3-12/TEL&FAX:0197-35-2708

※本展はPhotoDisc社のCD-ROM画像集に収録された作品の一部をインクジェットプリントしてお見せするもので、本物のリトグラフの展示ではありません。また、如何なる場合でもこのプリントを更に複製使用することは許可されません。

 

 

ミニプリント展ご鑑賞の手引き

そう思った人は半分当たり。「ヌーボー」を辞書で引くと「新しい」と「とりとめがない」という2つの意味が書かれているはずです。この相容れそうにない2つの意味がなぜ1つの言葉で表わされるのか不思議ですが、アール・ヌーヴォーを知っていただけばなるほどと感じる方もあるでしょう。少し長くなりますが、アール・ヌーヴォーの様々な文献から拾って、概略をまとめてみますので、ご存じない方はためしに読んでみて下さい。

●興味のある方は「ヌーボー」に至るまで我慢してお読み下さい。
アール・ヌーヴォーの「アール」はフランス語で「アート」の意味で、やはり「Art」と書きますが、「ヌーヴォー(又はヌーボー)」はフランス語で「Nouveau」と書き英語では「New」つまり新しいという意味ですから、合わせて「新しい芸術」という意味になります。「新しい芸術」なら、今でも誕生しているわけだから、19世紀末の作品が「新しい芸術」なはずはないと思われるかも知れませんが、実は、この「アール・ヌーヴォー」は19世紀末の装飾美術や応用美術(この時代には画家がデザインを手がけていて、美術とデザインが分離しておらず、彼らの作品を応用していたので、工芸、ポスターなど芸術作品でない分野のものを応用美術と呼んで区別した)の独特のスタイルに対して総称されて世界中に伝わったため、今でも固有名詞として使われているのです。百年経っても千年経っても「新しい芸術」と呼ばれるとは、なんともうらやましい限りです。
 この「アール・ヌーヴォー」と呼ばれるスタイルは、ある人が突然つくったというのではありません。18世紀末のヨーロッパにおこった産業革命によってその種はまかれていたのです。この革命によってあらゆる分野に機械化の波が押し寄せましたが、特に工芸の世界では多くの面で質の低下を招きました。それらが、1851年にロンドンで開催された世界初の万博会場に展示されるに至り、このままでは文化と社会の品位も低下すると考えたイギリスの工芸家達が中心となって、手工芸に重点を置いた復興運動を展開しました。これが1880年代になってヨーロッパ中に広がったアート・アンド・クラフト運動と呼ばれるものです。この波はやがて美術工芸の広い分野に及び、旧態然とした制作を続けることに疑問を持っていた芸術家達も賛同し、新しい芸術を求めて活動を展開しました。彼らの根底には「自然の姿に学ぶ」という考えが流れ、しかもその姿を単にそのまま作品に持ち込むのではなく、理想的な形に構成し直して作品の中に一体化することを念じていましたから、手工芸の強みもあって自然に植物的、曲線的な形が作品をイメージづけました。折りも折、日本が1854年ペリーの黒船の来港によって開国し、多くの日本美術が欧米に渡ってジャポニズムの嵐が起こりました。その後の各国の万博では、日本も独自の文化を紹介しましたからこの時代の芸術家達が、特に浮世絵の新鮮さに関心を寄せ、木版技法、色彩などの面で少なからぬ影響を受けたことは明らかです。(ちなみに、かのロートレックも、日本から浮世絵や筆、硯箱を取り寄せ収集していたそうです。またガラス工芸家のエミール・ガレに至っては当時フランスに留学していた高島得三…画家でもあり、日本美術に造詣が深かった…を通じて直接的に日本美術を知り、やがて[鯉魚文花瓶]を生みだすことになりますし、モネやゴッホも浮世絵を模写した作品を描きました)
 更にこの時代に石版印刷(リトグラフ)が発明され、カラー印刷が可能になると、画家が自分の作品を使ってデザインしたポスターが誕生しました(最初に作ったのは1869年フランスのジュール・シェレで、のちに彼は「ポスター芸術の父」と呼ばれました)。純粋芸術のワクから脱け出して、初めてアートを街頭に持ち込んだアイデアは、まさに、この時代精神がなせる業と言えるでしょう。以後、ロートレック、ミュシャ、ビアズリーなど日本でもよく知られるグラフィック・アーティストたちが活躍する土壌が作られ、20世紀初めには日本にも波及しました。
 しかし、この欧米のアール・ヌーヴォーの波は、1914年の第一次世界大戦によって、産業界全体が急激に標準化・規格化へと向かったため、規格に当てはまらず、しかも高価なアール・ヌーヴォー作品は大衆のものとなるに至ることなく衰退の道をたどりました。しかしその精神は機械化の波の中で引き継がれ、やがてアール・デコも生まれていったのです。日本では、それから約10年余アール・ヌーヴォーの全盛期が続きました。
※ちなみに日本における全盛期と竹久夢二が活躍した期間が一致(1905〜1930)するのは単なる偶然でしょうか。無論その後もヌーヴォー調の仕事を続けた人はたくさんいますが、どなたか調べてみてはいかがでしょう。

●ここでやっと「ヌーボ−」の話に戻ります。
こうした「新しい芸術」の作品群に共通するのは、今回の展示を見ていただければお分かりと思いますが、曲線的表現がふんだんに使われていることです。そのために、後世の日本人にはピリッとしない、つかみどころがないと写ったでしょう。真偽はともかく「ヌーボーとしている」という言葉がこの時生まれたとしても不思議ではありません(辞書の中には、言葉のイメージから生まれたかも?とするものもありますが断言してはいません)。
 今回の展示は、このような時代に活躍した人々の作品のほんの一部に過ぎません。また本物は入手できませんので、ミニプリントでお見せするしかありませんが、当時の息吹の一端を感じていただければと思います。

■「アール・ヌーヴォー」の名前の由来
前もってアール・ヌーヴォーの意味は「新しい芸術」と書きましたが、だからといってこの名前が自然についたわけではないのです。ドイツ生まれのサミュエル・ビングという人がパリに渡って1895年に美術工芸品店を開きましたが、その店の装飾を工芸家のヴァン・デ・ヴェルデという人に依頼しました。当時、ヴェルデがこの新しい芸術潮流のことを「アール・ヌーヴォー」と表現していたことから、これを店名にそのまま利用して「アール・ヌーヴォー・ビング」としました。更に1900年のパリ万博にビングも参加し、そのパビリオンの装飾をアール・ヌーヴォーの作家ジョルジュ・ド・フールに依頼するなど、新しい美術の傾向をアピールしました。これが世界中の人々の注目を集め、ついにこの新しい美術の傾向が「アール・ヌーヴォー様式」として世界的に認知されるようになったのです。

●最後に
20世紀末の今日、建築やデザインの世界では、ご存知のようにポスト・モダンが唱され、シャープな形よりもぬくもりのある曲線を持った形が受け入れられるのは、19世紀末とどこか似た時代背景があるからなのかもしれません。
 また江刺には「黒船」が誕生し、街には形のみならず、新しい意識が生まれようとしているように感じます。このことも、何か因縁じみたものを考えてしまいますが、決してヌーボーとしていないことは確かで、これからも協力しあって、誰もが訪れたくなる良い街になって欲しいと思います。


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