第12回ギャラリー[亀の子館]特別展
GOHO OIKAWA
 東京芸術大学の中庭に建っている川端玉章先生顕彰碑の側に銅鋳の六角柱が有る。三井家を頂とする画学校の弟子達の名(雅号)と生年月日が刻まれ、その最上段の真ん中に及川豪鳳の名前が連座して居る。
 豪鳳は本名を一(はしめ)といい、明治27年(1894)及川直康・よしえの長男として旧岩手県江刺郡岩谷堂町中町(現江刺市中町)に生まれた。父母の希望は商人にすることであったが、父直康が日本画を描いていた影響もあって、少年期から日本画を好み、画業の道に進むことを切望した。高等小学校を卒業後、伯父の助力もあって上京を果たし、大正3年(1914)小石川の川端画学校に入学した。しかし在学中に両親が相ついで亡くなり、唯一援助を惜しまなかった伯父にも逝かれる不運が続き、中央で嘱望されながらも長男なるが故にその道を断念、苦学の末大正7年(1918)同校卒業と同時に郷里江刺に帰った。以後、一度県展に出品した以外はどの画壇にもくみすることなく、ひたすら郷里のために描き続け、父母の生家や妻チヨを始め、江刺内外の多くの方々の暖かい支援のもとで、昭和45年(1970)4月29日に永眠するまでの50年余を書画一筋に歩むことができたのである。
 後年、自宅を開放して主に町内の当時の子供達を対象に書道塾を開いたが、もともと「書道塾」と堅苦しいのが目的ではなかった。色々な習い事に通える子はともかく、それが出来ずにいる子が「あばれん坊」的に遊んでばかりでは明日の為にならない。「何かを習うという事で意欲と自信が湧き、情操的にも役立つ」との考えから始めたと聞いている。だから級も段もない。皆な同じ、◎と優だけで終始した。多い時で七十余人を数えた。父兄から「何んぼ包んだらえのが、わがんねがら月謝決めてけらんや」と言う声が出ていたが「気持ちだけでいいのだから」と終生決める事はなかった。定める事に依って通えなくなる子の事を考えていた様である。
 また地方では日本画だけでの生計は無理と、自らの経験から一切日本画の弟子はとらず、息子にもそれを望まず師範学校に進ませ、二人の娘にも同様、美術については一切伝える事はしなかった。そのため豪鳳の名は地元以外では一切世に出ることはなく、まさに「名もなく、貧しく、美しく」を地で行くような人生を送り、病の床の中で「筆一貫」の書を残し、静かに世を去ったのである。
 及川豪鳳は四条派(しじょうは・円山応拳系)を継ぐ当地最後の画家であった。代表作には、正法寺(水沢市)の襖絵、光明寺(江刺市)の屏風と襖絵、大安寺(水沢市)の白衣観音像図(掛軸)と屏風絵などがあるが、江刺・水沢周辺の寺院や個人宅などには多数の作品が保存されている。

■期間
平成12年2月6日(日)より

■会場
えさし亀の子本舗 八重吉煎餅店●2Fギャラリー/江刺市中町3-12/TEL&FAX:0197-35-2708

天女図(軸装、部分)
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